2008年5月31日土曜日

世界一周 in (7)カンボジア/○○に出会った~♪







DATE:2008/05/31 Cambodia - Siem Reap -


今日は何にもなかった。

なんて書くと怒られるのでちゃんと書くと、
学生時代からの仲間であるナオコに会った。なぜかカンボジアでw

偶然ツアーの日程が重なったため、
急遽日程を調整して合流することに。

とは言え会えそうなのは今日の夜のみ。
そして、ナオコ自身もいつ自分がシェムリアップに着くかわかっていない模様。
事前に連絡をしあったものの、結局日程が決まったのは
ナオコが日本を出発してから。
メールをしておいたが本当に出会えるか不安が募る。

まぁ、会えなかったらしょうがない。


会うまでの時間、まったくの暇人になってしまったので
友達と博物館に行くことにする。
シェムリアップ博物館というところだったのだが、
これが以外にも当たりで、アンコールの遺跡や彫像を深く理解することができた。

その後は一人でポルポト政権の歴史映画を見る。
単なる変遷を追っただけの映画だったけれど、
1975年に向けて、少しづつ狂気が積み重なっていくように見えて
虐殺の理由はわからないまでも、あらましだけでも感じることができた。
まぁ、英語だったので半分ぐらいしか解説わかんなかったんだけどね。



午後8時。
いまだ連絡来ず。
とりあえず着いたら連絡くれるようにお願いしているものの、
そもそも相手が携帯を持ってきているかどうかも不明。

まぁ、最悪ホテルの場所はわかっているので行けばいいやと気長に待つ。


午後9時。
とりあえずホテルに行こうと準備をしてると、
メール来たー!
そろそろホテル着きそうとのことなので宿を出る。


午後9時30分。
ホテルに向かって歩いたもののぜんぜん着かない。
諦めてバイクタクシーを拾う。ビュイーンと行く。
けっこう走る。なかなか着かない。
どんだけ遠いんだ・・・。歩くのは無理だったらしいw


ホテルに着き、
まぁ明らかに怪しげな日本人と察した警備員を、
どうにか笑顔で交わしてロビーへと向かう。

ロビーを見回すと日本人らしき二人組みの姿が見える。


ナオコ発見!!


ナオコと会うのは超久しぶり。
1年間ワーキングホリデーでニュージーランドに行っていたため、
1年ぶりの再開である。

どうやら二人組で来ていたらしく、
もう一人の姿も見える。

ナオコに再開の挨拶をし、
友人らしき人にもドーモーと声をかける。



そして違和感に気づく。



ん?友達にしてはちょっと年が上過ぎるぞ・・・。


・・・お母様!?


しまった。。普通に同年代の挨拶をしてしまったw

なんと、ひと目あいさつに来たくてわざわざロビーで待っていてくれた模様。
すでに観光名所となってしまった自分に驚くも、
急遽、「友達のお母様モード」に切り替え挨拶を交わす。

ありがたやいろいろお菓子なども持ってきてくれたらしく、
お土産をいただく。
その中身が梅干と納豆というのがナオコ親子らしい。まったく親子だw



その後は、
客のいないステージで大音量で歌い上げる女性ボーカリストとと戦いながら、
お酒を飲みながら久しぶりの再開を祝う。

なんかお互い変わってないね。

それがうれしいし、そういうもんなのだろう。
久々に気の置けない友人と出会い満足して帰宅。



これがシェムリアップ最後の夜。



さてアンコール・ワットと、さよならしますかぁ。


p.s.
だから黒いとか、そういうコメントはもういいってw

2008年5月30日金曜日

世界一周 in (7)カンボジア/その道を行けば







DATE:2008/05/30 Cambodia - Siem Reap -


結局のところ、地雷博物館は移動してしまい、
シェムリアップの郊外30キロほどのところにあるそうだ。


え~ん。行けない。


ア・キーラ氏はカナダのNGO団体と合流し、
また新たな出発を迎えたそうだ。
カンボジアから早く地雷という恐怖を拭い去る。
その活動の一端を見てみたかったが今回は諦めることにする。

明日やってくるスペシャルゲストを待つために、
今日は暇つぶしの一日。

どうせならばと言うことで東南アジア最大の湖トレ・サップ湖を見に行くことに。

時間もあるし~と思い自転車で出かける。
距離としては約15キロ、ゆったりと行っても1時間。
暇つぶしにはちょうど良い時間。

そしてその選択が思いもよらない体験へと踏み出すきっかけになるw


自転車はのどかな田園風景をゆるりと走り、
いつの間にか市場のような場所にたどり着く。
そこを抜ければトレ・サップ湖・・・のはずだった。

道の行き止まりまで行くとたくさんの観光ボートが停泊する、
船着場のような場所に出る。

どうやらここから船に乗り、湖に出てツアーを楽しむのが普通らしい。



でも僕は単に湖を見たいだけなのだ。

そんなツアーなんか行かないぜ~と、
行き止まりの先に細い一本道を見つけ自転車を走らせる。

ほんとうに細い、バイクの車輪一本分の道。
トレ・サップ湖へ続く川沿いのその道は
たまに利用している人がいるらしく車輪の跡もちらほら見える。
ただしほぼ獣道のような状態でデコボコとしたオフロード。
道と言うよりは誰かが通った跡。と言ったほうが正しいかもしれない。

川には水上生活者がボートの上に板を引いたような、
簡素な家で暮らしておりその姿が面白い。
暮らしている人々に手を振りながら道を行く。


そしてその途中でふと気づく。




「ここって地雷大丈夫?」




ん・・・?大丈夫じゃないかもしれない・・・。
大丈夫じゃないかもしれないよ。ここ・・・。


よく考えれば川や湖は軍事的に重要なルート。
戦場になったこともままあるだろう。
そんなところに地雷を置く。考えられなくない。というよりも可能性大!

楽しかったオフロードが一気にデスロードへと見えてくる。
進むべきか、戻るべきか。

乗りかかった船である。轍があると言うことは、
一度誰かが通った道。危険性は少ない。

この道を行けば、どうなることか・・・行けばわかるさ!

「Same Step!」
地雷撤去の際のこの言葉を思い出す。
よし「Same Step」だ!

そこからはちょっとばかし景色を見る余裕もなく、
道の中の一本の轍を注意深く見守り前進、前進。

湖までの道は意外と長く1キロほども進んだろうか、
ようやく川の端が見えてくる。

湖らしき水面が近づき500メートル、400、300と水面が徐々に迫る。
水辺にはぎっしりと水上生活者の家が見えている。

徐々に近づいてくる湖。
200メートル、150、100・・・




そしてそこで道は途切れたのである。
なんでよ?




えーーー、ここまで来たのに!

目的地を目前まで控え、端までたどり着けず。
いままでの恐怖との戦いはなんだったのだ!
目の前で川に埋没した道をうらめしく見つめる。

その横ではボートに乗った観光客が優雅に通り過ぎていく。
そして僕を現地の人と勘違いしているのか手を振りビデオを撮る。
いや違うし。黒いけど。

途方に暮れ、
どうにか端まで行く方法はないかと現地の人が乗る船に乗せてもらうことを考えるが、
通っていく船は2人が限界らしく、お尻が沈没しかけている船に乗った人が
必死に中に入った水を掻き出しているのが見える。これは無理。


無念。トレ・サップ湖目前にして退路をとぼとぼと自転車をこぐ。
まぁ、ちょっとだけ見れたからいいかと自分を納得させ、
むしろこのネタの方が面白いと心をごまかす。


帰り道。
二人乗りの一台のバイクとすれ違う。
この道を使っている人がいたことに少し安心をする。
それ程危険な場所でもなかったようだ。

そしてふと気づく。


ん?あの人たちバイクでどこ行くの???


一つの結論に至る。

別の道がある!!???

振り返りバイクの姿を追っていくと、
いつの間にか左折をして違う道へと走っていく。
まだ道が残されていたのである。


自転車を翻しもと来た道を引き返す。
バイクの通った道を見つけそちらへと向かってみる。
もちろん轍の跡を慎重にw

すると灯台のような監視塔のような建物が見えてくる。
希望の光だ。光ってないけど、光ってる。光ってるよ。

しかしながらまたもや道は途中で水に浸食されていた。
バイクの二人組みもそこで立ち往生しているようだ。

しばらく見ているとそのうちの一人が道の脇の草むらを徒歩で進み始める。
僕もそれに習い「Same Step」でぐんぐん進む。


そしてたどり着いたのである。トレ・サップ湖に。


それだけでなく、
監視塔のような建物は寺院だったらしく、
地元の人たちと話しているうちにその上にあがらせてもらえることになる。

そこからの景色は格別である。

広大なトレ・サップ湖が一望に見渡せ、
水上生活者の家々が湖の岸辺に張り付くようにしているのがわかる。

たぶんこの景色を見ることができた旅行者は少ないに違いない。
その特別感と景色の雄大さに感無量。


さらに、そこにいたお坊さんと2時間ばかり話をする。
英語はあまり上手くなかったがトレ・サップ湖の話、
自分の人生の話、いろんな話を聞かせてくれた。

彼の父親は彼が3歳のときに死んでしまったらしいが、
年齢から考えておそらくはクメール・ルージュの虐殺にあったのだろう。
道を歩けばそういった人に出会う。そんな場所なのだ、ここは。



トレ・サップ湖と会話を十分に堪能して岐路に着く。

なんだか特別な体験をした気がする。
しかしながらやはり地雷の恐怖と言うのは恐ろしいもんだ。肌で実感する一日だった。



p.s.
夜。一之瀬泰三さんが通っていたと言うレストランへ行ってみる。
伝統的なクメール料理。スープが格別だった。
そして「地雷を踏んだらサヨウナラ」という言葉が、リアルに感じられた日だった。

2008年5月29日木曜日

世界一周 in (7)カンボジア/千年美







DATE:2008/05/29 Cambodia - Siem Reap -


今日はシェムリアップから足を伸ばして郊外の遺跡めぐり。
もともと一人で行くつもりだったが、
昨日アンコール・ワットで偶然、ラオスで知り合ったドイツ人と出会い、
その人とトゥクトゥクをチャーターしシェアすることにした。

アンコール・ワットの郊外にも遺跡群は点在しており、
中心地の遺跡とはまた違った形式や雰囲気を楽しめる。
今日はその中の、バンテイスレイ、ベンメリア、ロリュオス遺跡を回る。


ついでと言ってはなんだが郊外へ足を伸ばす前に、
もう一度アンコール・ワットの朝日を見ることに。
またもや朝もはよから動き出す。

2日前はアンコール・ワットの尖塔から覗く朝日を見たが、
今回は水面に写るアンコール・ワットを見ながらの日の出鑑賞。

水面に映る景色は時間とともに光を増して行き、
まさに「幻想的」という言葉がふさわしかった。

今日がアンコール・ワットを見られる最終日だったので、
ついでに再度遺跡内をぐるりと回り、レリーフを見納め。

やっぱり何度見ても心を打たれるし、物足りなさを感じる。
まだまだ見たりないと。


後ろ髪を引かれながら次の目的地、バンテイスレイを目指す。
アンコール・ワットからは約30キロ程度の距離だろうか。
1時間ほど、のどかな田んぼの風景を楽しむ。

このバンテイスレイも物凄い遺跡だった。
もっとも印象的なのはやはり他とは比較にならないほどの
繊細で精密な壁や門に施されたレリーフ。

機械を使って施されたような彫刻が所狭しと壁面を覆っている。

そしてその赤い壁の色がなんとも美しい。
やはり千年の時が経ったとは思えない、そんな生きた印象を感じる。



そして次ぎ目指したのはベンメリアと呼ばれる、
さらに40キロほど離れたエリアにある遺跡。
この辺りは地雷撤去も完璧には施されておらず、
また現地人の強盗なども発生しているそうで、
まだまだ安全とはいえない地域だそうだ。

それでも年間を通してたくさんの観光客が訪れる。
そしてその中でもとりわけ日本人の観光客が多いのは、
この場所が「天空のラピュタ」の体現と表す、ガイドブックなどの影響だろう。
ベンメリアは遺跡の崩壊も激しい、森に飲み込まれた遺跡なのである。

そしてその美しさは群を抜いている。

アンコール・ワット、バンテイスレイと言った造形美とは異なる、
「死」や「退廃」がもたらす美の世界。
侘び寂びを好む日本人には感じやすい要素が多分に含まれている。

多い茂った森の中にひっそりと朽ちる遺跡。
内部に入ると崩れ落ちた石が積み木のように積み重なり、
その上を覆いかぶさるように大樹が根を張っている。
世界の脆さよりも自然の力強さを感じさせる。
朽ちた遺跡と木々。それが一つの美となって今も生き続けている。


そのベンメリア。
遺跡自体も美しいのだが、ちょっと面白いのが他の遺跡と異なり、
まだ管理が進んでいないからなのか「立ち入り禁止」の看板がない。

そしてそれの意味することはどこへでも出入り自由だということだ。
というわけで、積み重なった石の上を縦横無尽に上り下りすることができる。

むしろそうしないと遺跡全体を見ることができないほど崩れている場所なのだが、
そのクライムが中々に面白い。

ロッククライミングのごとく遺跡をめぐっていく体験はここでしかできない。

それもまぁ、管理が行き届くまでなのかもしれないが、
ちょっとアスレチック的な楽しみができる場所でもあった。

最後には汗だくになりながら次の目的地へと向かうことになったが。


最後にロリュオス遺跡をめぐり、
このアンコール遺跡群の見納めとなった。



3日間ほぼずっと遺跡を回っていたが、やっぱり物足りない。
かといって1年間いたところで十分かと言うとそうでもない気がする。
それ程までに奥が深く、心を奪われる遺跡群だった。

千年もの昔、この遺跡を築いた人々は何を思いどう暮らしていたのだろう。
アンコール遺跡群に共通して感じたのは「生」の痕跡だった。

その遺跡がクメール・ルージュなどの基地として利用されたことも含めて、
長年の間、地元の人々に愛され、利用され続けていたことがわかる。
広大な遺跡群はなんとなく身近なものに感じられるのだ。


また必ず来る。

そう思い、アンコール・ワットは今日でさよなら。
また次の旅へでなくちゃな。あぁ、名残惜しいw

2008年5月28日水曜日

世界一周 in (7)カンボジア/地雷を踏んだらサヨウナラ







DATE:2008/05/28 Cambodia - Siem Reap -


今日の目的地は地雷博物館、アンコール周辺遺跡、そして一ノ瀬泰三のお墓。
一之瀬泰三は「地雷を踏んだらサヨウナラ」の映画で有名な、
日本人戦争写真家。そして彼はクメール・ルージュにこの地で処刑されたのである。
今日は少し趣向を変えて、戦争というものに触れる旅をしようと思った。



まずは地雷博物館。とネットで調べた情報を頼りにアンコールワット周辺を動き回る。
曲がり角には看板があるという情報だったがどこにも見つからない。

自力は諦めてカンボジアの現地の人に「タイゾー?ランドマイン・ミュージアム?」
と聞いてまわる。
親切な地元の人々はあっちだこっちだと道順を教えてくれる。
とても親切な人たちだ。

それがみんな別々の場所を指していなければ・・・。


最初それを信頼して進んでみるも、
行けども行けども畑ばかり。
これはおかしいと思い、ほかの人に聞いてみる。
するとまったく逆の方向だと教えられる。

そしてその途中で確認のために別の人に聞くと、
ここから30キロも先の場所だと教えられる。

いったいどこ?地雷博物館・・・。

1時間ほど探したが結局よくわからなかったので、
今日の訪問はあきらめ明日以降へと先送りする。

ここ最近忘れていたがここは東南アジア。
人に道を聞くこと自体が大きな間違いだったのかもしれないw



気を取り直して、次は一之瀬泰三のお墓へと向かう。
舗装されていない砂利道をずんずんと進む。
すると「泰三のお墓」と書かれた看板が見えてくる。
場所は村になり、それを抜けて何も無い野原になる。

その先を進んで行くと、崩れ落ちそうな橋を渡った先に、
一之瀬泰三のお墓はぽつんと存在していた。

ほんとうに何もないそれだけが存在している場所。
こんなところで彼は殺されたのだ。

その時、何を彼は考えていたのだろう。
ここまでの道のりで何を思っていたのだろう。

若干26歳でこの世を去った彼は果敢にも、
カンボジアの人口の3分の1とも言える200万人を虐殺した、
クメール・ルージュが潜むアンコール遺跡群を撮影し、
そして命を奪われた。

命をかけてやり遂げるものなど何も持っていない僕にはその使命感はわからない。
彼はこの地で最後を遂げるときに笑っていたのだろうか。それとも悔しかったのだろうか。


とは言え感傷に浸っているその脇で一人の子供が
「1ドルくれ。賽銭だ」とわめき続けていたので、
なかなか一人の世界へ没頭するというわけにはいかなかったがw


彼らは見世物と慰霊との区別もついていない。
頭の中にはお金しかないのだろう。

彼らはどこにでも存在し観光の気分を台無しにしてしまう。
僕らが何のためにそこにいるのかを理解していない。
貧しさとは心遣いさえも奪ってしまうものなのか。

いままで普通に暮らしていた人々が、
一部の観光客に物乞いをしてみたら「1ドルもの大金」を貰うことができた。
月収50ドル未満の彼らにとって1ドルは1万円近くの価値がある。
それを理解していない僕らは「たった1ドル」として施しを与える。
そしてそこから彼らは働くことを辞め、日々物乞いに勤しむこととなる。

そこから何が生まれるんだ?
そしてそれを引き起こしたのは僕たちだ。


しかしながら彼らの笑顔や、言語能力はすばらしい。
丸暗記の英語ではなく会話として普通に英語を話す子供たちは、
やはり賢いのであろうし、仕事をしていないときに
遊んでいるその姿はやはり子供のままなのである。
それはこの国の財産でもあるし、その宝が放置されている姿でもあると思った。


帰り道、時間があったのでもう一度好きな遺跡をめぐってみる。
タ・プロム、アンコール・ワット。
やはり何度見てもその姿は格別だと思った。
そこでそのまま沈む夕日を見る。それもまた美しい。
全てにおいて完璧な世界だ。



カンボジアは本当に美と醜がごちゃまぜになった世界だ。
そこに暮らす人々は美しくもあり醜くもある。

何がそうさせるかわからないが、
いつもより一歩引いて現地の人と接している自分がいる。

もしかしたら彼らの未知数の能力が怖いのかもしれない。

まだ一歩踏み出せずにいる自分に少しイライラしている。

2008年5月27日火曜日

世界一周 in (7)カンボジア/アンコール・ワット







DATE:2008/05/27 Cambodia - Siem Reap -


アンコール・ワット。

最大の仏教遺跡であり、
1000年近く前に立てられたそれは元はヒンドゥー寺院でもあった。
その付近に点在する、アンコール・トムなどを含めて世界遺産に登録されている。

カンボジアといえばアンコール・ワット。
東南アジアの旅での最大の目的地に今日、やっと訪れることができた。

繊細な細工、そしてその美しさ。
特に第一回廊と呼ばれる最下部の回廊に施された壁のレリーフの美しさは
ほかでは絶対に見ることのできないものだろう。
天国と地獄を描いたものや、撹拌と呼ばれる絵など、
四辺合わせて1kmはあろうと思う回廊全てにその装飾が施されている。

アンコール遺跡群のほぼ全てを1日で回ったが、
個人的にはやはりこのアンコール・ワットが最も美しいと感じた。
完璧なシンメトリーに施された様々な彫刻はやはり類が無く、
朝日を浴びる姿やライトアップされた姿はやはり美しかった。

言葉では表すことのできない世界がそこにはあった。



始まりは早朝から。
日の出を見るために、5時前には宿を出てひたすら自転車をこぐ。
アンコール遺跡群の観光はけっこう距離があるため、
歩きでは難しい。そのため、普通はトゥクトゥクなどをチャーターするのだが、
時間などを気にせずゆっくり好きなところを回りたかったため自転車をチョイス。
本当はバイクをレンタルしたかったのだが、見つからなかったのでしかたない。

アンコールワットへの道は一本道である。
まずは遺跡に行く前にチケットを購入。
チケットブースで3日券を購入する。
ちなみに3日券以上は写真を取られて顔を券に印刷される。
3日で40ドル。この国の物価からすると以上に高いが、
これもまたアンコール遺跡群の修復に使われると思うと納得できる。

チケットを購入し、さらに道をまっすぐに進むと池のお堀が見えてくる。
そこはもうアンコール・ワットの領域。期待感に胸が膨らむ。

道を左折しさらに進むと見えてくる、5本の尖塔。
アンコール・ワットである。
朝日を待ち、白ずんだ空をバックにたたずむその姿に、
感動しうれしさがこみ上げてくる。やっとここまでたどり着いた、という感じ。

入り口までたどり着き、朝日を見るために中へと入る。
最近修復が終わった表参道を進み、門をくぐる。
そして、その遺跡に刻まれた文様の細かさに驚く。
これが1000年前に作られたとは到底信じられないような美しさ。そして精細さ。

門を抜け、本堂へと向かう。
境内には朝日を待つ人々で溢れている。
ビューポイントを探し、適当な場所で日の出を待つ。
その間も刻々と色が変わる空をバックにアンコール・ワットの壮大さを楽しむ。


そして朝日。
切り立った尖塔の横から光が漏れ始める。
それは美しいとしか言いようの無い光景。
旅を始めてよかったと心から思った。


その後はアンコール・ワット内を回り壁のレリーフや装飾を楽しむ。
今は残念ながら頂上である第三回廊は修復のために上れなかったのだが、
それでもいつの間にか3時間の時間がたっていた。

その後はアンコール・トムやタ・プロムなどの周辺遺跡を楽しむ。
途中、一人でまわっている日本人と知り合い、
その人のガイドに説明を受けたりして、いろいろ質問。
一人でまわるだけでは知ることができないことを教えてくれた。

約10ほどの遺跡を回っただろうか。最後は結構体力勝負になっていたけれど、
それぞれに美しく、また歴史を感じさせてくれるものだった。



いやはやしかしこの遺跡群が1000年も前に作られていたことに驚く。
逆に1000年の時間での僕たちの進歩はこの程度だったのかと思うほど。

完璧な姿で存在していた1000年前を思い、うらやましくも思う。

そしてこの場所が様々な争いの舞台であったことも思い出す。
ほんの数十年前までこの場所は内戦の中心地であり、
クメール・ルージュの軍事基地だった歴史もあるのだ。
その証拠にいくつかの寺院には銃痕がしっかりと刻まれている。

きっと内戦後の姿は今の美しい姿とは異なり、
痛々しい傷跡を残していたのだろう。
それをこの数十年で修復してきた努力に驚き感謝する。

アンコール遺跡群では今もいつもどこかで修復作業が続けられている。
そのコストは何億にものぼりそれは各国の援助でまかなわれる。
技術支援としても日本を始め沢山の国々が名乗りを上げ修復にあたっている。


それでもまだ遺跡の周辺には、遺跡の一部であっただろう石が
瓦礫のように打ち捨てられている。

それを見るとなんだか終わりのないパズルを組み立てているような気分にさせられる。
そしてそのパズルは争いや自然の力でいとも簡単に振り出しに戻されてしまう。
まるで犀の川の石積みのように。

失ったものを取り戻すのはそれほどまでに、大変な労力を伴うものなのだろう。
それが美しく完璧であればあるほど、元の姿を蘇らせるのは困難になる。


アンコール・ワット。
ただ美しいだけでなく、その歴史の重みを感じさせてくれる、
想像以上の遺跡群だった。



世界遺産13個目。ようやくアンコール・ワット!
そして明日もまたこの遺跡が見られる。それがやはりうれしいのだ。

2008年5月26日月曜日

世界一周 in (7)カンボジア/クレバー!







DATE:2008/05/26 Cambodia - Siem Reap -


朝7時。クラチェからシェムリアップへ向けてのバスが出発する。
シェムリアップは言わずと知れたアンコール・ワットの観光の起点になる町。
カンボジア最大の目的であり、唯一の目的でもあるw

約9時間をかけてバスはシェムリアップに到着。
途中バスステーションで休憩中、売られている沢山の虫に異国を感じる。
もちろんまだ食べてはいない。1つぐらいはいつか・・・。


到着したシェムリアップ。
バスを降りると20人を超える客引きが詰め寄ってくる。
まさに詰め寄るとの表現が正しく、暴動でも起きたように
「俺がゲストハウスへ案内してやる!」
との言葉を繰り返す。それも20人が同時に。

いや、実際これは結構な恐怖感。
まだカンボジアという国がどういう国かもわからなかったし、
この客引き達を信頼していいのかもわからない。

そもそも彼らはトゥクトゥクのドライバーらしく、
フリーでゲストハウスに連れて行ってやると言う。
これは怪しい以外のなにものでもない。必ず利益のために人は働く。

とは言え一泊5ドル弱のゲストハウスからコミッションを受けたとしても
1ドルか2ドルが精々だろう。
そのお金のために、このドライバーたちがここまで必死に迫ってくるとも思えない。
何か裏があるんだろうがそれがわからない。

迷った挙句、客引きたちを振り切り歩いて町へ向かうことに。
町までの道をとぼとぼと歩いて行く。

そこに先ほどの客引きの1人が追いかけてくる。
彼は最初に話しかけてきたドライバーで、けっこう綺麗な日本語を話す。
日本語を話す外国人は信頼できない。とのセオリーから、逆に警戒心は強くなったが。

追いかけてきてなおも、乗せてってやると繰り返す彼。
何でそんなに熱心かを聞いてみると、理由がやっとわかる。

「タダで連れてくから、明日以降のアンコール・ワット見学のドライバーとして雇ってくれ」


なるほど。と思った。
そして少しこの国の人たちを恐ろしいと思った。

ドライバーとして1日雇えば少なくとも10ドルのお金を手に入れることができる。
さらにバックパッカーならば長期の滞在が多く、
3~5日などの専属雇用も期待できるだろう。
そうなると彼は合計で50ドル程度の売り上げを上げることになる。
ガソリンなどの原価を差し引いても利益は30ドルは下らないだろう。
1ヶ月の給料が50ドル程度の彼らにとってそれは大金なのである。

それで客引きの熱心さも理解することができた。
1人の客との専属交渉権。それはビッグビジネスへの一歩なのである。
ゲストハウスへの送迎などは単なる餌。コミッションもメインビジネスではないのだろう。

これが何を意味しているのかというと、
「彼らがビジネスを知っている」という事である。
つまり「どこでお金を取るか」という事をある程度長期的なプランで考えているのである。


これは結構、旅行者にとっては恐ろしいことでもある。
1つ1つの決断を長期に渡っての利益を踏まえて考えなくてはならない。
単に安いだけの理由で選択をすると、かえって損になることもあるのである。
損だけならまだしも、危険なことにも巻き込まれかねない。


そう言えばクラチェの宿のオーナーもそう言った意味ではクレバーだった。
客を宿泊させツアーに参加させ、さらに移動のバスの予約をさせる。
夕食や朝食を宿のレストランで食べさせる。
最初5ドルだった宿泊費という売り上げが、
いつの間にか何倍にも膨らんでいる。
顧客単価を上げることはマーケティングの基本だが、
それをきっちり踏まえてのビジネスなのである。
ここでは安い宿泊費が撒き餌になる。


そしてもう一つの特徴として、
この国の観光客相手をしている人間の言語能力のレベルは相当高いのである。
英語は当たり前、日本語やドイツ語など2カ国以上をマスターしている人間がごろごろいる。
そしてその発音や文法も正確である。
しかもたった6ヶ月ほどで日常会話を習得したという人間も多い。


ここ、カンボジアの人々はクレバーな国民らしい。
それが意外でもあり、うれしくもあり、怖くもあった。
今まで東南アジアの国々を歩いてきて、
こういったビジネス感覚を持っている国民はいなかった。
そういう意味では思ってもいなかった興味深さを感じた。


結局、彼の紹介するゲストハウスの条件が良かったので、
専属ドライバーの約束はできない、との条件付で送ってもらいそこに泊まることにする。


油断のできない国、カンボジア。
なんとなくそんなイメージが付いてしまった。

しかしながら、裏を知ってしまえばおいしい部分だけを得ることも可能なのである。
もちろん人間性が疑われない程度にw


さてさて、
明日からはアンコール・ワット見学。
東南アジアでは最大の目的の1つ。楽しみ!

2008年5月25日日曜日

世界一周 in (7)カンボジア/ワイロを払え!







DATE:2008/05/25 Cambodia - Kratie -


ついに、カンボジアの国境である。

悪名高きカンボジア国境。
それは賄賂の横行に起因する。

カンボジアに入るにはいくつかのルートがあるが、
空路で来た場合には到着後のイミグレーションで単に20ドルのビザを購入するだけですむ。

しかしながら陸路は不法地帯の世界。
さらにルートによっても対応が異なる。

タイからの国境越えについては賄賂というよりも、
ぼったくりビザ代理店が犇く不法地帯があり、
ビザ取得のためにはその群れをかき分けて行かなくてはならないらしい。
20ドルのビザに40ドルを請求する代理店。
もちろんその代理店を素通りすれば普通に20ドルでビザは発行される。


そしてラオスからの国境。
ここではイミグレーションの入国管理官が賄賂を請求する。
しかも正式にと装って。

とは言え1ドルや2ドルの金額のため、
そんなに大きな影響はないのだが、それでも気分が悪いもの。
ただし入国管理官のため、その人間を通すか通さないかはその人次第。
逆らえない状況での賄賂請求。悪質なのである。

とは言え、カンボジアのビザを事前に取得するよりも安上がりなこともある。
バンコクでのカンボジアビザは即日発行の場合30ドル。賄賂額よりも高かったりする。
20ドルでの発行は可能だが3日程の期間を必要とする。
当然、カンボジアの大使館へ行かねばならずその交通費は往復で5ドル程度だろう。
さらに代理店に頼むと40ドル程度。
これならば国境の1ドルの賄賂などかわいいものである。
たまにビザ発行ができない国境もあるため、
不必要とは言わないが、実は賄賂を払って通過するのが
楽チンかつ一番経済的でもあったりするのである。
(もちろん賄賂を払わずに通過するのが一番安い)



そんなカンボジア国境にいざ向かう。

まずはラオスの国境。
チェックポイントでスタンプを押してもらう。
そして、
「1ドルの手数料。今日は日曜だから追加料金で1ドル。合計2ドルだ」

の公然とした賄賂請求に従う。無事、ラオス出国。



そして次はカンボジアのビザ発給。
書類に記入し、写真を貼ってビザの発給申請。
そして、
「21ドル(説明なし)」

の賄賂請求。これにも素直に従いビザ取得。



最後はカンボジアの入国審査。
ビザを確認してもらい、入国書類に記入。
そして、
「手数料1ドル」

の最後の請求に素直に従い無事入国。




賄賂、計3回、計4ドル。
お前らその金はどこに使うんだ?
と聞きたくなるぐらい、その手数料とやらは手渡した後にはぞんざいに机の上に置かれていった。

しかし土日料金ってなんやねん。仕事だろ!

ちなみに、「サンデー 1ドル♪」はその後のバスの中での流行語になるw


微々たる額っていうのも賢いところで、
これなら外国人もすぐ払うと思っているのだろう。
とは言え100人の外国人が通過すれば100ドルである。
月収50ドルにも満たない彼らとすれば1日でその大金を手に入れられるのである。
きっと陸路国境の入国管理官の人気度はべらぼうに高いに違いない。


さてそんな中、賄賂を払わずに通過するツワモノも現れる。
彼は、
「50ユーロなら持ってるんだけど・・・両替できる?もしくはATMはこの辺にある?」
のトークで無事、賄賂を払わずに通過していっていた。
しかも賄賂を払った僕たちの目の前で。
「おい、それはおかしいだろ」と入国管理官に詰め寄るも、
「しょうがないじゃないか。彼はお金を持っていないんだ」の一言で済まされる。
手数料と言っていたことを忘れている。一律ではない手数料はただの賄賂なのであるw

ちなみにこの手が絶対に通じるかというと、そうとは言えないし、
もしそれでNGだった場合、もしかしたら国境を通過できないかもしれないので、
あんまりお勧めはしない。
本当はお金を持っていてもさすがに無いと言ってしまった手前引き返せないしね。



そんなわけで無事?国境を通過。
バスはカンボジアの道を進む。

カンボジアの風景は、まぁやはりラオスとそう大差は無い。
ただ違うのは家が藁葺きだったり、ラオスより多かったりと
人口の数と生活レベルが若干異なることが感じられる。

とは言え全員が貧しいのかというとそうでもなく、
中にはラオスではほぼ見ることの無かったような、
コンクリート建てのきれいな洋風な建物も建っていたりと、
貧富の差は歴然としてある国のようにも見えた。




今日の目的地はクラチェという小さな町。
目的は「イルカウォッチング」である。
そう、ドンデットのイルカへのリベンジのためにこの町を目的地にしたのである。

午後3時にクラチェに着き、
客引きを捕まえて宿にチェックイン。
さらに聞くとイルカウォッチのツアーは4時からあるという。

イルカ以外に特に何も無いこの町。
今日見れれば明日は次の町へと移動できる。

急遽それに参加することにして、タクシーでボートのある村へと向かう。
しかしそのタクシー6人乗り・・・40分ばかりの道。
欧米人と後部座席4人乗りはかなりヘビーな体験だったw


無事にボートにたどり着き、早速出発。

10分ほど、ボートを走らせ川の中央まで移動する。
中央まで来ると前に出発していたボートが3艘ほど停泊している。
そこでボートのエンジンを切り、あとはひたすらイルカを待つ。

ほかのボートから歓声が聞こえる。
そちらの方向を見ると、

「いた!」

うっすらとであるがイルカの背中が水面に突き出ているのがわかる。
おー!初の生イルカ!ちょっと感動w

しかしながら結構遠いところを泳いでいたのであまり良く見えず。

イルカを発見するとボートはいっせいに、
そのイルカの泳ぐ方向へと船を進ませる。
イルカと共に移動するボートの姿はなかなか滑稽でもある。

その後は2度ほど姿を現すも、10分ほど何の姿も見えない時間が過ぎる。

ボートを進ませイルカの姿を探す。
すると1匹のイルカが背中を水面に現しているのが見えた。

後はもう写真の撮影会。
いつの間にかイルカは2匹に増え、3匹に増え。

群れとは言わないがいたるところで姿が見えるようになる。
ボートの上から「あっちにでた!」「こっちも!」と皆で
イルカの発見を楽しむ。
結局、あんまり近づいては来なかったが十分にイルカの姿を楽しめた。

色は黒く、形は頭が大きいジュゴンのようなイルカである。
残念ながらジャンプをしているようなシーンは見れなかったが、
親子らしい2匹のイルカが次々と頭を現してくれたりして、
けっこうみんなで興奮して喜んでいた。

ちょうど夕日が沈む時間であったため、
沈む夕日とイルカという感動的な光景でもあった。

しかしながらイルカの写真撮影は難しい。
一眼レフなどある程度のカメラではないと姿をきちんと写すのは至難の業。
取れた写真もほぼ、ピンボケだったり画面の端っこだったりしていた。
まぁ、これは動物だからしかたない。
最初はみんなカメラを片手にじっとイルカが出てくるのを待っていたが、
途中でみんなあきらめてイルカウォッチングを楽しんでいた。


興奮の中に宿に帰宅。
ご飯を食べ、眠る準備。

カンボジアの町は明かりがついていない事も多く、夜の通りはかなり暗い。
治安もあまり良い国ではないので、けっこう歩くのは緊張を強いられる。
いろんな国を見てきたが、治安の悪さを肌で感じるのはこの国が始めて。

旅を始めて4ヶ月。そろそろ油断が出てくるかもしれない。
ちょっとだけ気を引き締めてカンボジアの始めての夜を過ごす。

第7カ国目、カンボジア編はじまりま~す♪

2008年5月24日土曜日

世界一周 in (6)ラオス/空を舞う光の中で







DATE:2008/05/24 Laos - Don det -


今日は東南アジア最大の滝、コーンの滝を訪れる。

滝自体は今いるドンデッドから船で本土へ渡って約10kmほどの場所にある。
当初の予定では、自転車をレンタルしそれを船に乗せて行こうかと考えていたが、
船着場の少年に聞いてみたところ「無理!」とのこと。

たぶん違う人に聞けば「OK!」となる可能性もあったが、
ちょうどその時、対岸に渡ろうとしていた滝見学ツアーに混ぜてもらうことに。
ラッキー♪

ツアーは日本人3人の40歳ぐらいのおじ様たちのみ。
なんでも、バンコクの宿で知り合ったらしく、
今回みんなの予定が合ったので2ヶ月ぐらいかけて、
タイの東北地方やラオスを回る予定なのだそう。
偶然知り合った人とのつながり。やっぱ旅ってそれが面白い。

船で対岸に渡り、チャーターした車で約20分ほど走り滝に到着。
まだ姿は現れていないのだが結構な轟音が聞こえている。
滝は高さは15メートルほどなのだそうだが、なんと幅が1キロにも及ぶ。

みんなでいそいそと滝へと駆け寄り、姿を拝む。
音と紛わずけっこうな迫力。
特に滝よりも落ちてきた水の流れが濁流となり、
下っていく姿が迫力というよりも若干の恐怖を感じさせる。
確実に死に追いやる罠を見ているような気分。

展望台から降りて、岩の間を進み滝に近づいたり、
見る角度を変えてみたりとガイドについて1時間ほどひたすら滝見学。
今回は雨季の始まりに訪れたが、雨季ともなると
今見ていた岩のあたりも全て水に飲み込まれてまた違った風景になるのだそう。

日本には雨季という程のものがないため、
あんまり実感がないのだが、東南アジアではよく雨季になると~といった場所を見かける。
そいういった自然を1年を通してみてみたいと思うことがよくある。
この場所もまたいつか違う季節に来てみたいと思った。


滝から戻り、
そのままパクセーへの長距離バスへと乗り込む3人を見送り船でドンデットへと戻る。

今日は特にこれ以上の予定がなかったため宿に戻り、
さてどうするかを考える。


そしてメコン川で泳ぐことにする♪

メコンデビューの日がついにやってきたのである。

タイからラオスへ入国して以来、
いつもそばに寄り添っていたメコン川。
そんな一途な彼女についに飛び込むことにする。

ちなみに、泊まっている宿は川沿いにあり
(というよりも島が小さくて基本的に全て川沿いになるのだが)
宿から川へのアクセスは徒歩0分。

しかもご丁寧に宿のレストランには「JUMP→」の看板まであるw

とりあえず水着に着替えいざダイブ♪

約5メートルほどの落差を飛び降りるとそこはメコンの世界だった。
初メコン。ほんとのワタシでびゅー、な感じ。

しかし以外にもメコンの流れは力強く、油断しているとすぐ流される。
最初は適当に泳いでいたのが、いつの間にか本気モード。VSメコンモードへと変わって行く。
10メートルほど先にある小さな島まで泳ごうと思っていたのだが、
ままならず川の途中で引き返す。けっこう必死。
文明を生み、人々の生活を支えるメコン川の流れはやはり大きかったのです。

このメコン川、ラオスに入ってからは常に町のどこかにあったのだが、
ラオス南部あたりぐらいからまたその親密度が増している。

この町ではこの水をトイレ、そしてシャワーにもつかっている。おそらく。

いつの間にかトイレの水は茶色くなっていたし、
シャワーの水の出所を見てみるとトイレと一緒だったので、
メコン水なのは間違いはない。

いつの間にかメコン水デビューをさせられていたわけである。
メコンとはリアルに生活の中にあふれている生きるための川なのであった。

ちなみに洗濯ももちろんメコン水。
洗っているのか汚しているのか、判断が付きづらい状態である。
さらに地元民はダイレクトにメコン川で体を洗い、野菜を洗う。
いまさら気にする気にもなれないが、現実はやや過酷な状況だったようである。



夜中。ラオス最後の夜。

電気が落ち、発電機の明かりさえも消えた暗闇に蛍の光が飛び交っている。

この町は蛍があふれる、自然豊かな町。
いたるところに蛍が飛び交い、点滅を繰り返している。
日本とは異なる、チカチカという信号のような点滅が夜を飛び交う姿は幻想的で美しい。
たまに夜空に舞い上がる蛍はまるで流れ星のように、空を舞って行った。





いつの間にか2週間を過ごしていたラオス。
当初の予定では1週間程度だったのがこんなにも伸びて行ったのは、
この国の人々の豊かさに居心地の良さを感じていたからだろう。

この国の人々の笑顔はすばらしい。

そしてそれが当たり前のように振舞われる。
「微笑みの国」という言葉を当てはめるのならば、この国がふさわしい。

ほんの10年ほど前までは観光客の姿など見えなかったこの国。
その性か、どこか素朴な人々のぬくもりが未だに残っているようにも見えた。

主たる生産物は農業であり、経済的には貧しい国なのであろうが、
その貧しさとは僕たちの価値観の中でのモノサシでしかないことに気づく。
それほどまでに彼らの人生は楽しそうであった。


そしていま。
観光客が流入してきたことから歪みも生じてきていて、
いたるところで物乞いや、物を売る子供たちを見かけてきた。
そしてその姿は自動的で親に言われたとおりにお金をせがむ、
意思のない行動に写ったし、それは自分のエゴを押し付けるのに必死で
ただお金のために生きている姿でもあった。


そしてそこに豊かさということへの疑問を感じた。

お金がなくて大学に行けない一人の少年がいた。
お金がないので学校にも行かず自動的に物を売り続けている子供たちがいた。

両方ともお金がないのだろうが、
どちらにもお金があったとして、彼らは幸せになれるのだろうか。

目的もなく自動的に「お金」を欲しがる子供たちは、
それを得たところで次になにをするのだろう。

もし彼らが「お金」という世界を知らず、
家族で毎日を生きていたのならば、それはそれで幸せだったのではないだろうか。

経済力というのは幸せに大きな影響を与えることではあるが、
ただ豊かになれば幸せになれるのかというとそうではないんだろう。


物を手に入れ、おいしいご飯を食べ、きれいな服を着る。


それは誰が決めた幸せなんだろうか。

僕たちの生きる世の中は情報であふれている。
きっと僕たちはもう知ることを避けられないでいる。

マスメディアが決めた幸せに。
誰かのような幸せに。


僕たちの幸せの定義はいつの間にか誰かが決めた幸せになっているのかもしれない。
その定義にそぐわない人間は幸せではないと僕らは決めてしまうのかもしれない。

誰かが決めたその幸せを。知っていしまう前と、今の自分と。
どちらが幸せであったのだろうか。


彼らから見て「お金持ち」の僕の目から彼らの幸せを定義するのはエゴなんだろう。
持つ者から、持たざる者の気持ちはわからないし、
彼らに持たざる者の状態でいて欲しいと思うのは、
彼らを動物園の動物と同じように「生きた標本」として扱うのと同じだろう。

それでもやっぱり彼らのスペシャルな笑顔は、
僕たちがいつの間にか失っていたもののように思えるのだ。
それは単なるリスペクトでしかない。


豊かさとはなんぞやと。幸せとはなんぞやと。


この笑顔の国はたくさんのことを考えさせてくれた。

そしてたくさんの人々との出会い。それはかけがえのない時間だった。


10年後、この国はどう変わっているのだろう。
10年後、僕が出会った人々はどう変わっているのだろう。


変わることは理であり、必然だ。
だからこそそれをまた、僕は楽しみにしている。



この国に出会えたことを感謝します。
この国で出会った人々に、ありがとう。

さて明日からはカンボジア!目指せアンコールワット!

2008年5月23日金曜日

世界一周 in (6)ラオス/河イルカは向こう岸へと姿を消して







DATE:2008/05/23 Laos - Don det -


ドンデッドというラオスとカンボジアの国境付近の町にたどり着く。

もともとは知りもしなかったのだが(大体どの町もそうだけど)
パクセーの旅行代理店にいたるところに貼られている

「4000アイランド」

の響きが気に入って、その1つの島ドンデッドに行ってみることに。
この島がラオス最後の島になる。


この島は東南アジア最大の滝であるコーン滝と、河イルカで有名な島である。
そして電気が通っていないことでも有名ではある。

河イルカ。なんだかわからないが、面白そうな響きに引かれて、
ドンデッドの隣の島、ドンコンへと歩いて見に行ってみることに。

なんとなくの頭の中の地図しか持っていなかったので距離感がわからなかったが、
なんだか泊まっているゲストハウスからイルカのビューポイントまでは、
8キロほど離れているようである。

しかしそんなことに気付いたのも歩き出してから1時間ほどたった後、
町にある看板を見てから。

いまさら引き返すことも出来ないため、舗装もされていない田舎道をひたすら歩く。

途中、島にある滝を見たり(まぁまぁ)メコン川のビーチを見たり(しょぼい)
寄り道をしながらイルカへとただ進む。

時刻は既に3時を回り、4時に差し掛かっている。
距離的にはまだ2キロほどあるが、ぬかるんだ道が多いため、
そんなにスピードをあげることは出来ない。

そして案の定、転ぶw

お尻の部分を泥だらけにして、後はもう根性で進む。

時刻が4時に差し掛かったところ、泥んこ道の先に村らしきものが見えてくる。
恐らくはそれがビューポイントの村である。

ゴールは見えてからが長い。
その法則に当てはまるように、村が見えてから約20分ほど歩き到着。
そして、イルカは見えなかった。


見えなかったよー!!!!



このシーズン、カンボジア側に移動しているらしく見える確立は高くはなかったのだが、
まぁ行けば1匹ぐらいはと無謀にもチャレンジしたところ敗北。
2時間の島内ウォーキングは水泡と化したのでありました。

そして時刻は5時。

別の問題が僕に降りかかる。



この島には電気がない。



と言うことは、説明するまでもなく
日没までにゲストハウスにたどり着かなくてはならないと言うことである。
果たせなかった場合はまさに路頭に迷うのである。

来た道とは違う最短と思われるルートを通り、進む。
本当にこの道が続いているのかという不安が脳裏を掠めるが、
いったん進み始めた以上、後は進むしかない。

電気がないことを裏付けるように、
この島ではまったくといって電線を見ることがない。

ジャングルとまでは行かないが、多い茂る森の中の道を、
夕日を追いかけて進んでいく。


途中、なんと道が木でふさがれている。

潜り抜けて進んだものの、一つの疑問が頭をよぎる。


「この道、車通れないってことは使われてなくね?」


しかし選択肢はGO AHEADのみである。
方角的にはあっているので、進めばどうにかなるさと覚悟を決める。

進んでいくとまさに第一村人発見な勢いでおじいちゃんを目撃。

「ドンデッド?」と進む方向に指を指し道を尋ねてみる。

おじいちゃん、同じ方向を指を指す。

合ってた!この道で!

後は前進あるのみ、いつの間にか見覚えがある道に出て、
それは安堵へと変わる。とは言え時間がないのは変わりない。


途中、泥酔した変な日本語が話せるアメリカ人に話しかけられる。
6年間日本で語学を勉強して、難しかったのであきらめて今は、
この島にバンガローを買い経営をしているそうな。

一緒に話しながら歩くも泥酔しているので遅々として進まない。
一軒のお店にたどり着き、飲んでいかない?と誘われるが、
宿までかなりの距離があったので遠慮する。
この島にファイブスターのホテルを作りたいとのたまう
彼の話も少しは聞いてみたかったのだが。


そんなわけで、いろいろありながらやっとのことで帰宅。


電気のない町。

9時ぐらいまではレストランなどの明かりが発電機で点され、
一応の町の姿を保っている。

その9時を過ぎるとそこはもう闇の世界。

まだ世界にはこんな場所があるのだな。

そしてそんな場所でも意外と不便なく暮らせることにも気付く。

文明は余分なものとは言わないが、なくても困らないものなのかもしれない。


夜中のトイレが暗いのはちょっと不便だけど。

2008年5月22日木曜日

世界一周 in (6)ラオス/ラスト40キロ!







DATE:2008/05/22 Laos - Champassak -


昨日断念したワット・プーへ向かうべく、
チャンパサックの町へ向かう。

いろいろ調べたところ、現地の町チャンパサックにも
いくつか泊まるところがありそうなので、
パクセーの町を後にして移動をすることに。

朝、8時から行動開始。
パクセーから40キロほどのチャンパサックへは、
車で約一時間程度でいけるはずである。
町自体は川の向こうにあるため、そこからさらにボートに乗ることとなる。

宿を出て、昨日のトゥクトゥク兄ちゃんを探してみる。
もちろん昨日のリベンジを果たすためである。

案の定、すぐ近くでうろうろしている兄ちゃん。
僕の顔を見ると嬉しそうに声をかけてくる。

「ワット・プー!」

もちろん答えはイエス!
トゥクトゥクに乗り込み昨日のバスステーションへと向かう。
昨日と違うのは背中にでかいリュックを持っていること。


バスステーションに着き、笑顔で兄ちゃんにさよならを言う。
そこで彼が教えてくれたバスを待つことに。時刻は8時30分。
1時間に1本ほどだとしても、午後までに着けば観光は余裕で出来る。



9時。チャンパサック行きらしいバス(と言っても軽トラに席をつけたような奴だが)が到着し、
人を詰め込み始める。とはいえその時点ではまだ3人程度。
出発する気配も見せない。

タイ付近のこの手のローカルバスのルールは、
時間通りに走るのではなく、人がいっぱいになったら走る、
というものらしく、時間の読みはまったく当てにならない。
カスタマーファースト、どこへやらの話である。

そもそもこのバスの運ちゃん達は、
きっと一日1往復ぐらいの仕事しかしていないように見える。
どの町に行っても車の脇で話し込んでいたり、木陰で寝ていたりする。

まぁ、確かに運ちゃんにとっては日銭が稼げればよいのだろうから、
人が集まった段階で出発するのはある程度理にかなった話ではある。
だが乗るほうにとって見れば迷惑この上ない。



10時。さっき運ちゃんに聞いたときは10時に出発するとのことだった。
しかしやっぱり人が集まらないらしく、出発の気配はしてこない。
その間にもなぜか荷物だけは運び込まれてきていて、
足元がどんどん果物やら野菜やらで埋まっていく。
車の上にもどんどん荷物が積み込まれ、
イメージどおりのアジアのバスに変身していく。



11時。持っていた本も読み終わり、
いかにアジアに慣れたといえイライラしてきたところ
どこから沸いてきたのか人がわらわらと集まりだし、
バスに乗り込み始める。出発の兆しが出始める。
運転手がやれやれと車のキーを差込みエンジンに火をつける。
乗車から2時間。やっとのことで出発である。
9時から一緒に乗っていたおばちゃんと、苦笑いを交わす。

とは言え進み始めたバスはいたるところで荷物を降ろし、
さらにいろんな荷物を追加していく。

木材やらガソリンやら、やら、やら。

まさにイナバ物置状態と化した乗り合いバスは一路チャンパサックへ。
悪路の中を砂埃を巻き上げ進んでいく。



12時。やっとのことでチャンパサックの対岸までバスはたどり着く。
ここからはこのままバスをフェリーのようなイカダに載せて対岸まで進むらしい。

6台ほどのこんもりと荷物を積んだヘビー級の車だけを積んだイカダは、
3台のボートをくくりつけて、その上にただ木の床を敷いたもの。
まぁ、これでよく浮かぶもんだねと心配よりも関心が先だつ。

フェリーに乗り込んだ後も、まぁそこはアジア。
いろんなモノを売り子さんたちが外から車内に売り込んでくる。
そして当然のようにその中には虫も含まれる。。。


虫!!


6匹ほどのバッタのようなものの串刺しや、
同じくカナブンのような虫の串刺し。
なんの躊躇もなく少女はそれを口にする。
ラオスの北側では見なかった光景が一気に花開く。

そんな風景に見とれながらも、やっぱりここでも
フェリーは車が満杯になるまで出発する気はないらしく
ひたすら船の上で出発を待つ。
対岸まで約50メートル。目の前にあるのに手が届かない。



1時。やっとのことで船はエンジンの音を立て始める。
それもまぁ、ゆらりゆらりと対岸へと向かい始める。
動きを見ていると、明らかな過剰積載のためまったく出発できないでいる。

船を左右にクネクネさせ、なんとか軌道に乗ったらしく、
チャンパサックを目指して船は進む。のろのろと。


対岸についてからもトラブルは続く。
乗車していた1台がエンストを起こしたらしく、
他の車が出られない状態が続く。
手で車を動かし他の車の移動スペースを作りなんとか出発。
目的地までのラストスパートをかける。



2時。ようやくチャンパサックへ到着。
適当なゲストハウスに降ろしてもらい、そのままチェックイン。
やっとのことで町へとたどり着いた。


朝の8時からはじめて、昼の2時まで計6時間。
たった40キロの道のりに、なぜもまぁこんなに。。。
それもまたアジアなんだろうなぁ。
ちなみに僕のマラソンタイムは4時間30分。走った方が早いらしいw

町自体はめっちゃのんびりしてて、
牛は田んぼに浸かって涼んでるし、道路にはフンコロガシがいたりする。
町を歩くと子供たちが声をかけてくる。まだ、観光地ズレしてない素朴なところ。
夜は宿のオーナーとラオス・ウィスキー、ラオラオをいただく。
あっという間に夜が更け、おねむの時間。


あ。ワット・プー行きましたよ。ちゃんと。

自転車借りていそいそと。
意外なほど大きく美しい遺跡でした。


でも、移動の方が思いで深かったりしたりなんかして。


世界遺産にも勝る、ラオスの交通事情。恐るべし。

2008年5月21日水曜日

世界一周 in (6)ラオス/計画的犯行にて







DATE:2008/05/21 Laos - Pakxe -


早朝。
バスはバスステーションへとたどり着き、そのまま宿にチェックイン。
スリーピングバスでのファットマン問題は、
何の問題もなく眠れてしまったため朝から快調。

朝食を食べていると、
ルアンパバーンまでのボートで一緒だったフランス人の二人組みと出会う。
この辺りを旅していると大体ルートが同じらしく、
たまに同じ人に出くわしたりする。それもまた、旅の醍醐味。

偶然彼らもバスステーションへ行くところだったため、
トゥクトゥクをチャーターしワット・プー行きのバスステーションへと向かう。

バスステーションへとたどり着き、彼らとお別れをする。

このバスステーションは地元の人が使う、
市場に面した場所のためごちゃごちゃとした雰囲気が漂う。

トゥクトゥクのお兄ちゃんに案内されて、
チャンパサックというワット・プーがある町へのバスを探す。

そして、兄ちゃんが話す。

兄ちゃん:「ここで待ってれば来る」
僕:「そうか、ありがとう」

兄ちゃん:「でも、帰りのバスはないけどね♪」




・・・え?なんですと?



ニヤニヤと笑うトゥクトゥク兄貴。
オロオロとしだす僕。



てめー!仕組んだな!!!??



不敵に笑う兄ちゃんは、きっとこのことを知っていたに違いない。
なぜならワット・プーへ行くと最初聞いたとき怪訝な顔をしていたからだ。

まさかの、バス停止まり。

方法としては今日、ワット・プーへ行き現地のホテルに泊まるか、
現地でトゥクトゥクをチャーターすると言う方法もあったが、
結局、高くなりそうなのであきらめる。

ニヤニヤする兄ちゃんを小突き、

「だましたな!フリーで町まで返せ!」

というと、ホントにタダで乗せて帰ってくれた。
いい奴だ。でもやっぱし、フリーと言うことは知ってたな!


と言うわけで、
何もないパクセーの町を観光し一日が終わる。

さて、明日は絶対ワット・プー!

2008年5月20日火曜日

世界一周 in (6)ラオス/Easy is BEST







DATE:2008/05/20 Laos - Vientiane -


ビザが取れなかったため、
ビエンチャンを離れカンボジアへの道へと向かうことに。

タイ経由でのカンボジア入りの方が簡単なのだが、
なんとなく同じく荷に再入国したくはなかったのでラオスを南下することに決める。

ラオスの南にはパクセーという町があり、
そこからは世界遺産のワット・プーというクメール遺跡を訪れることが出来る。
クメール遺跡はアンコールワットに代表される遺跡群で、ワット・ポーはその前哨戦という感じだ。


ビエンチャンの町を観光し、
夕方ごろバスステーションに向かう。
ちなみにビエンチャンは首都と言いながらも、相当に小さい。

重い荷物をかかえて、えっちらおっちら。
たどり着いたバスステーション。

そしてパクセー行きのバスはなかったのだった。


え?まじ?



そんなこともあろうかと、
午前中きちんと同じバスステーションに行き確認しておいた。
しかしながらバスはない。

聞いてみるとそこは市内のバスが集まるバスステーション。
当然ながら長距離のバスは出ていないらしい。

じゃぁ、さっき聞いた話はなんだったんだ!

と怒るも、既に夜は迫っている。

長距離バスステーションまでのトゥクトゥク料金を聞いてみると、
あきらかにぼったくり。しかも全員が全員。
なんかのルールで決まっているらしい。


一度、泊まっていた宿に戻り確認してみるも、
やはりバスステーションは遥かかなた。
トゥクトゥクで行くしかないらしい。

その宿で長距離バスを予約すればピックアップが付いてくるらしいが、
それ以外の人はピックアップバスにも乗せられないとのこと。

いいじゃーーん。君にもいくらか渡すから乗せて♪

と迫ってみるがまったく相手にされず。

いまから行ってもバスの予約が出来ない可能性もあったので、
結局、その宿で急遽予約をしてもらい、
ピックアップバスに乗り、無事バスもゲット。
料金的には結局高くついたのでした・・・。



やっぱしEasy is BEST。
旅のルールは守らなくてはならないことを改めて実感。

Easyに対してお金を払う。Easyの価値。
これって意外と高いんだなぁ。

思えば旅行代理店やらなんやら、そういうEasyを価値にした商売は沢山ある。
埋もれているDifficultを掘り出せばけっこうな商売になるんだろう。



ちなみにゲットしたこのバス。
なんと寝台車!バスなのに。

初めて乗る寝台車バス。
面白いことにバスの両側に二段ベッドが並べられている。
それぞれにキチンとシーツや枕なんかもあったりして。

そしてそれが、二人用なのである。
つまり二人で1ベッド。

隣が女の子だったらどうしようなどと、思春期な感じでドキドキするが、
案の定、隣の相手は


欧米人ふぁっとまん♪


おいぃ。でけーよあんた。

と言うことで、きゅうきゅうになりながら夜は更け、バスは走り出す。
そろそろラオスも後半戦。もう少しよろしくラオス!

2008年5月19日月曜日

世界一周 in (6)ラオス/真実とはなんぞや







DATE:2008/05/19 Laos - Vientiane -


ビエンチャンでしなくてはならないこと。
またもや中国ビザと戦うこと!


そして撃沈。
お達しは全世界へ渡っているらしく、バンコクと同じ状況でした。あしからず。
中国国内での更新に望みをかける。


あきらめて宿でぐだぐだしていると、
バスが一緒だったドイツ人が声をかけてきて、

「外で酒飲みながらおどってるんだけど来ない?」

と言われる。どういうことやねん。と思うも、面白そうなので行ってみる。


単なる古本屋の店先。
そこでは地元の人たちがなぜか、お酒を片手にギターを鳴らし、民族楽器を鳴らしている。

10人ほどの集団に混じり、音楽に合わせて踊りだす。
通りを通る、人たちが興味深げに視線を投げかけてくる。
踊る阿呆に見る阿呆。同じあほなら。。ね?

1時間ほどで宴は終わりを向かえ、各自解散。
踊っていたメンバーと一緒に夕食を食べ、
宿に戻る途中、お経の読経が聞こえたため急遽参加。

ろうそくを持って境内を歩くなど、いろいろ体験。ローカルライフ。


宿で飲もうとロビーに戻ると何人かが既に飲んでいて、
僕らもそれと混ざることに。


話は弾み、中国のチベット問題へと流れは進む。
メンバーには香港人も一人混ざっていて、
それぞれの立場からそれぞれの視点での意見を述べる。

意外な事に面白かったのは、
香港人の彼が中国側を支援する意見を持っていたことだ。
そしてその情報は誰が持っているものよりも新鮮で詳細だった。

香港人というとなんとなく、
中国とは別の国で広い視点を持っているイメージだったが、
彼の情報はどちらかと言うと中国の公式意見に傾いているようだった。

しかしながら、その情報は面白く、
今のチベット問題を別の視点から見るためには十分に刺激的だった。

彼曰く、
チベットのダライラマは基本的には搾取する権力者であり、
中国から追いやられた今はアメリカの援助を受けて動いているとのこと。


もちろん彼の情報だけでは暴動が起きる理由が説明できないが、
アメリカの支援を受けているとの情報はその理由の可能性を探ることもできる。

チベットがなぜ、重要な国かと言うと詳しくはわからないが、
一度読んだ本によると「石油」が絡んでいる可能性が考えられる。

チベット自体は産油国ではないのだが、
イラクなどと言った産油国と中国の間にある国なのである。
現在、中国からそれらの国に直接パイプを伸ばすと言う話が上ってきているらしく、
それがチベットを分離させない中国の一つの理由になっているとも考えられる。

また、アメリカから見ると、
チベットの位置は軍事的に重要な場所にあり、
もしそこにアメリカ基地があればアジア全体の監視が容易になることは間違いない。
そこに目をつけたアメリカがダライラマと共同している可能性は考えられなくない。

あくまでも予測でしかないので、
こういった可能性がチベット問題の背景にあるとしか言えないが、
チベットの問題が民族としての問題以外の問題を孕んでいることを考える良い機会になった。

そして国が変われば、そこに流れる情報の内容も質もまったく異なることを実感する機会でもあった。



今そこにある出来事の裏側に。

いったいどれだけの真実が隠されているんだろう。

一つの出来事に痛みを感じる人間と、喜びを感じる人間。

真実は一つではないのだな。

2008年5月18日日曜日

世界一周 in (6)ラオス/あいのる







DATE:2008/05/18 Laos - Luang Phabang -


どーよ?

と言ってみたくなるこの写真。
世の中とは不思議なもので、こういうことはたまにあるようです。

世界へ出て6カ国目。ラオスの町ルアンパバーンで、


ついに「あいのり」と出会う!!!!


えぇ!でしょw


世界一周に出ることを決めてから、
えらく友達に進められたこの「あいのり」にまさかここで会うとはw

実はこの車は2日前にも見かけていたのですね、えへ。
本日、撮影しているところも目撃したので満を持してネタ披露。
伝説をまたひとつ築き上げる。




今日はビエンチャンというラオスの首都へ向けて出発の予定だったが、
泊まっているゲストハウスの前でお祭りのようなものをやっていたので、
急遽予定を変更してもう一泊することに。

手作りのお神輿のようなモノを昨日から作り上げていて、
なんと昨日の夜は寝ずにドンチャンやっていた。

お祭り自体は小さなもので、
恐らくその一帯の家族だけが参加する小規模なもの。

それでもお神輿を用意したり、
音楽隊のようなミュージシャンを呼んだりと中々に盛大な様子。

午後になるとお坊さんが読経を行い、
お神輿はお寺へと担ぎ出されて、町を移動していく。
10分ほどのパレードだったけれど50人近くの人が参加していて、なかなか面白かった。

その後、お神輿はお寺へと奉納されて
さらにまた寺の中で読経が繰り返される。

結局、最後まで何のお祭りかわからんかったが、
地域の信仰度がにじみ出ているようで興味深かった。



その後は、
特に予定もなかったので噂の薬草サウナへ。

そこは赤十字が運営しているオンリーサウナのガチンコ勝負。
なにせシャワールームさえないという噂。

とりあえず行けばどうにかなるさと、
タオル片手にサウナへ突入。

100円ほどの入場料を払うとタオルのような布を渡される。
そして、入り口付近の部屋を示される。ここで着替えろということか。
入り口付近のため、ご婦人方もうろうろしている。
ということはもらったタオルは、腰に巻いて使うのだろう。

とりあえず着替えを済ませ、タオルを腰に巻き、ロッカーに荷物を入れる。


更衣室を出て、サウナ室の前の休憩所へ向かうと・・・
男女混合!!

タオルを巻いたおばちゃんおじちゃんが入り乱れたその光景に少したじろぐ。
若い女の子もいてちょっとにやける。・・・ちょっとだけね。ほんと。


まぁ、考えても仕方ないので地元ルールだと、
サウナ室へと足を踏み入れる。ちなみに混合なのは休憩室までで、
サウナ室は男女別。最後の一線は越えていないようだ。

木で出来たサウナ室のドアを開ける。
すると一気に中の熱気が外に吹き出る。
一面白いその部屋の中は、まったく視野を得ることが出来ない。
それでも一歩進むと、案の定なにかに躓く・・・いたひ。。

手探りで2畳ほどのサウナ室の中をまさぐり、
どうにかイスらしきものを見つけて座る。幸い部屋には誰もおらず、自由に動ける。

2畳ほどの部屋に、薬草のような香りが立ち込めている。
最初は真っ白に思えた空間も、慣れればなんとなくものの位置がわかってくる。
どうやら部屋の壁沿いにイスが配置されているだけのシンプルな部屋らしい。

熱さはというと、そうでもない。
日本のサウナに慣れた体ならば余裕かもしれない。
ただし乾燥系ではなく、水蒸気が立ち込める熱気系のサウナのため、
体中がすぐに水浸しになる。

5分ほどして外に出ると、体は汗や水蒸気でびしょびしょ。
休憩室で休むも、もともと暑いこの地域では中々ほてりは収まらない。

休憩室では熱いお茶が出されていたりして、それが唯一の水分補給。
熱い体に熱いお茶。なかなか拷問だがしかたなく、おいしくいただく。

4回ほどトライして、サウナ室を去る。
幸いなことに噂とは異なり水のシャワーを浴びることが出来たので、
汗だくの体で宿に戻る状態は逃れる。

ただし火照りはまったくさめず、歩けど歩けどぽっかぽか。
薬草の匂いがしみ込んだ体で宿に戻る。



ビエンチャンへ向かうバスを夜に予約していたので、
夜食を買いに行こうと町に向かう。そしてそこで出会うのだ。

ナイトマーケットの方向に向かう僕。
なにやらテレビカメラのようなものが見える。
そこで思い出す、2日前のピンク色の車を。

ミーハー気分に火が付き、ちょっと早歩きになる。
彼らが目の前に近づいてくる。
4人ほどのテレビクルーが撮影をしているのがはっきりわかる。
そして、それが写しているのは4人ほどの男女の集団。



こいつらだ!!!



と思い、とりあえずカメラで撮影シーンの撮影。
そしてスタッフに駄目といわれるw
いいじゃん別に。

ちょっとだけカメラに写る場所でうろうろしてみる。
まぁ、これもお約束。

撮影を終わった彼らの様子は意外と仲良さげ。
他人どおしで旅を長く続けていたらギクシャクしそうなのに、けっこう意外。

この人たちが本当にもともと他人かはまぁ、わからんが中々楽しんでいるようだった。


時間もなかったので、そこでストーキングは中止。
けっこうバックパッカーにもこの噂は広がっているらしく、
ストーキングしている人も少なからずいたw
外国人はぜんぜん興味を持ってなかったけどね。


そんなわけで、ラオスの国で「あいのる」ことに成功!
次は中田を目指してがんばります☆


P.S.
この後に、HPを見たら僕が見た人とはまったく違う人たちだった。
しかも旅をしている国はガーナ。。。アフリカ!?!?

これが単なる空騒ぎではなく、何ヵ月後分の撮影だということを祈ろう。
みなさん「あいのり ラオス・プランバナン編」に乞うご期待!

そんな僕は「あいのり」って1回ぐらいしか見たことないような・・・。
まぁ、そんなものだよね。

2008年5月17日土曜日

世界一周 in (6)ラオス/おりがみ手裏剣☆大流行







DATE:2008/05/17 Laos - Luang Phabang -


店先でマンゴーシェイクを飲んでいたところ、
物売りの子供たちと出会う。

その子供たちに折り紙の「手裏剣」を折ってあげる。
すると突然の折り紙ブームが到来する。
いつの間にか、ぞろぞろと物を売っていた子供たちが群がりだす。
一人の子に、折り方を教えてあげる。
言葉は伝わらないので、身振り手振りでレクチャー。
やっとのことで作り上げた彼は満足げに微笑む。

10人ぐらい集まり収集がつかなくなったので、
逃げるようにして店を出る。

実は2日前も、小学生相手に折り紙を折ってあげていた。
そこでも大ブームが発生し約1時間ほど折り紙を折り続ける羽目になる。

もしかしたら1年後、
子供たちの間ではおりがみ手裏剣が大流行しているのかもしれない。



もう一度、友達になったモンクに会いに行った。
彼の夢をかなえられるものではないが、
日本の本と日本の音楽を彼へのプレゼントととした。

寺に入ると、彼は自分の部屋に案内してくれ、
そこでプレゼントを渡し、またおしゃべりを楽しむ。

モンクの部屋というと、なんだか厳めしい感じもするが
何のことはないただの部屋でそれに少し驚く。

壁には観光地や広告の雑誌の切抜きが貼られており、
そこにベッドと小さな机が並ぶ。
普通の高校生のような部屋。そこにオレンジ色の彼が座る。
やはり彼らは僕らが思っているほど特別ではないみたいだ。

彼と彼の夢の話をする。

言いたいことは沢山あったが、
僕のつたない英語では伝えたことの一部しか伝えられない。
ただ僕は彼に希望を持っていて欲しかったし、
幸せでいて欲しかった。

沢山の言葉を話した。
もっとも大事なのは幸せであること。
そして自分の幸せは誰かの幸せで成り立っていること。
「Dreams come true」なんてチープな言葉では言い足りなかったし、
そもそも言葉なんかでは伝わらなかったかもしれない。

それでも僕らは話し合い、そして別れた。

少なくとも僕らが出会ったことはゼロではなかったのだと思う。
何ができたのかはわからないが、彼は笑顔で僕を見送ってくれた。



夜。
日本人の友達とルアンパバーン最高級のフレンチを食べる。
ラオスは50年ほど前、フランスに統治されていた国である。
そのため、建物や文化の端々にフランスの影響が感じられる。

そのラオスのフレンチを食べる。
たまには贅沢なものを食べるのも一つの勉強。

世界には上流階級なるものがあり、それは一般の生活とは異なる。
国を知るためには市民と同じように生活するのは大事だが、
それだけでは知ることができない一面もあるということだ。

なんて言っておいて、
ただ美味しいものが食べたいというのは、まぁその通り。
おとこ二人はなんだか味気ないが。


ラオスのフレンチは意外なほど美味しく、
フランス統治ということの裏づけには十分だった。

ワインのボトルを飲み干し、
赤ワインソースの川魚をほお張る。


いろんな事があった一日。
いつも最後の思いではお酒で締められるw

2008年5月16日金曜日

世界一周 in (6)ラオス/青く







DATE:2008/05/16 Laos - Luang Phabang -


今日は久々ツアーに参加しての観光。
行き先はパクウー洞窟とクアンシーの滝。


しかしその前に、ルアンパバーンのメインイベント、
朝の托鉢の風景を拝むことに。

朝、5:30。
そんな早朝から朝の托鉢は始まる。

その時間にスタートするということは、
いったいみんないつから起きてるの?
という感じだが、朝もはやからモンクも住民も観光客も、
みんなみんな目をこすりながら道にずらりと並ぶ。

道に立っていると沢山の売り子さんが、
托鉢グッズを売っていて、それを買ってお坊さんに喜捨することもできる。
しかしそれが良い事かはちょっとわからない。
各寺院にも托鉢は信者のみが行って欲しいという覚書や、
托鉢を行う場合も前日から自分で準備したものにして欲しいなどの言葉があり、
行き過ぎた観光地化の風景の一部のようにも思える。

そんなわけで、
道沿いには地元の方だけではなく欧米人も日本人も座って托鉢を待っている。
なんだかへんてこな風景なのである。

そんな中でも、オレンジ色の集団が道に現れた時にはやはり感動は大きい。
総勢20名ほどもあるかというモンクの集団が道を歩いていく姿は、
異様でもあるがそのオレンジの色と相まって美しくもある。

恐らく寺院ごとに托鉢を行っているようで、
いくつものグループが道を通り過ぎていく。
中には50人近くもいそうなグループもありお寺の大きさを物語っている。

そんな中、昨日お寺で会った少年モンクも托鉢をしており、
目が合ったので挨拶をする。
彼ははにかみ、笑顔を僕に送る。

約30分ほどの儀式なのだが、
やはり異国に来ているという感慨が大きく、
若干エンターテイメント化されているという気もするが十分に楽しめた。


そういえばこの町は朝が早い。
托鉢があるからかなのかはわからないが、
午前7時ともなるとお店は開き出すし、バイクが行きかう。
そんな姿も面白い。


帰り際、市場によって冷やかしを楽しむ。
野菜、果物から始まり鶏肉、豚肉、魚など。
そしてコウモリ、イグアナ、フクロウ、昆虫・・・。
人間とはいろんな食べ物を食べて生きる生き物なんですねぇ。。


帰宅後、午前8時からツアーは開始。
まずはパクウー洞窟ということでボートに乗り込み洞窟を目指す。

パクウー洞窟はメコン川を1時間ほど上った場所にある川に面した洞窟で、
洞窟内には寺院が作られていて4000体とも呼ばれる仏像が置かれているらしい。

またまたメコン川の風景を楽しみ、
途中で民族がゾウを操っている姿を見たり牛の水浴びを見たりと、
またもやゆるりムードを満喫。
ボートは洞窟に着く。


白く塗られた階段を上り、洞窟内を見学。
一部、懐中電灯が必要なところもあったが忘れたので、
暗闇の中、人に付いていきながら鑑賞。

まぁ、面白いところではあったが、特に感慨はなかったかも。
どちらかというと売り子をしている子供たちの破れた服装が印象深かった。


ゆるりと川を下り、クアンシーの滝を目指す。
この滝は泳げるということしか事前情報としてわかっていなかった場所。
まぁ、とりあえず水着だけ持ってけばいいかと、
ボートから降り次のバスに乗り込む。

バスは1時間ぐらいして滝へ到着。
途中で自転車で滝を目指しているカップルを見た。くれいじー。

3時間ほどの自由時間。後は勝手に遊べとのことらしい。
途中なぜかある熊の保護センターを抜けて、滝に向かう。
目の前に水の音が広がり、流れる水面が見えてくる。



「やべ。ここヤバイ。」

最初の感想。
思ってもいなかったほどに美しい光景が目の前に広がっていたのである。

中国の九彩洸などを思わせる、棚田のような小さな滝が上へ上へと続いている。
そしてその水の棚田の水面は空を映し青く輝いているのである。
思わぬ光景にいつのまにか頬が緩んでいる。

少し歩くとスイミングゾーンと書かれた看板があり、
何人もの人間が泳いだり滝の上から飛び込んだりと思い思いに楽しんでいる。
青くきらめく水面の中を泳ぐ。なんて贅沢な遊び。

とりあえず滝の先まで行って見ようとことになり、
上へ上へと川辺を登っていくがいつまでたってもその美しい光景は絶えることがない。

登山道は大きな滝の途中まで登れるようになっており、
そこから下の景色を見下ろせる。

そしてそこには当然のように青く輝いた水面が連なっている姿が見える。

思いもかけぬ、拾い物といった感じ。
世界遺産に登録されてもおかしくないような美しさが目の前には広がっている。



満足感いっぱい。
あとは泳ぐだけ!と急いで登山道を引き返し水着になり、水面へと飛び込む。

冷たい・・・。
が、ここで泳ぐのは楽しい。
石灰質の水のため、少しぬるぬるした水底だが、
その深さは意外と深く軽く3メートル近くはあるようなところもある。

みんな思い思いに飛び込み、泳ぎ、ゆったりと水につかる。

最高の景色の中、水遊び。贅沢~♪

みんな帰り予定時間のぎりぎりまで遊びまくり、
急いで着替えてバスに乗り込む。

なんだかとても満足な思いに浸る。



帰りのバスは途中、少数民族の村による。

そこは見慣れたお土産屋さんの並ぶ世界w
売り子の子供たちも馴れた様で、
「ワン フォー 2ドル♪ ツー フォー 3♪」
なんて歌にしてものを売りつけに回る。

そんななか、僕ら観光客は彼らの写真を取りまくる。

なんだか異常な風景。
双方のコミュニケーションは皆無に等しく、ただお互いが通り過ぎる。


しかし、子供たちは飽きてしまったのか
帰り際になるとみんな遊びだしている。

僕らも彼らと遊ぶことに夢中になる。
子供たちの一人がでんぐり返しをする。
それに僕らが笑う。そうすると、子供たち全員ででんぐりがえし大会が始まる。

いつの間にか彼らの中で、僕らに草を取ってきて渡すという遊びがはやりだす。
僕の手の中はなんだかよくわからない草や木の実でいっぱいになる。
草の香りが僕のまわりいっぱいに立ち込める。それが何だか心地良い。

バイバイを言って彼らの元を去る。
僕らがバスに乗り込んだ後、彼らのうち誰かが思い出したように言う。
「マネー♪」
最後には商売を思い出す。それがまた面白くもある。



いつの間にか心は満たされて、宿に着く。
そして今日もビールを飲み一日が終わる。

2008年5月15日木曜日

世界一周 in (6)ラオス/モンクの夢は







DATE:2008/05/15 Laos - Luang Phabang -


モンクの夢は意外なことにエンジニアになることだったりする。

今日、訪れた寺院で話をしてくれた15歳の少年の夢は、
まとったオレンジ色の袈裟とは裏腹に未来を見据えたものだった。



今日は朝の托鉢を見ることに失敗。
起きたのは早かった。しかし歩き出した方向は、托鉢とはまったく無縁の方角。
行けども行けどもオレンジ色のモンクは現れることがなかった。
・・・無念。

そんなわけで、10時ごろからルアンパバーンの町を散策することに。

2km四方ほどの町はそんなに大きいわけではないのだが、
朝の托鉢で有名なことからわかるように、沢山の寺院で溢れている。
山の上のプークー宮から、昔の宮廷だった王宮博物館、
ユニークな装飾が施されているxxx寺と、
朝の托鉢風景含めて町全体が世界遺産と登録されているのである。

ラオスの寺院は美しい。
フエサイのころから感じていたが、タイとはまったく異なった装飾なのである。
タイの北部であるチェンライなどとは共通点があるように思えるが、
バンコクなどにある寺院とは別物と言えるかもしれない。

基調の色は赤、白、金。
特に赤をベースにした柱や壁に金で彩った草のような模様が目立つ。
中には壁全体を金のみで装飾した絢爛豪華な建物も目立つ。
扉や窓の装飾も美しく、木に掘り込まれた仏様の彫像に一面金が塗りこめられている。
ステンドグラスのような色とりどりのガラスを埋め込んだ装飾も多く、煌びやかな印象がある。



そんな、寺院をめぐる中で一人のモンクと出会った。
約2時間も話していただろうか。その時間の中で多くのことを共有した。

知りたかった仏教の世界のあれこれから始まり、
大部分は彼の夢や生い立ちなどの聞き役に回っていた。

農家の家に一人っ子として生まれ、12歳の時に出家した彼。
今は寺院の学校で勉強をしているそうだ。

出家の理由も勉強がしたかったからとのこと。
その学校も今年卒業し、次の選択をしなくてはならない。
日本とは大学のシステムが違うらしく卒業後は大学へ行きたいと彼は願う。
そして、その時にはモンクを辞めて一般人へと戻っていくのだそう。

しかしながら、その夢は未だ現実味を帯びておらず
お金の面での苦労があり、今現在では見込みは少ないのだそうだ。
それを話す彼の表情は、悲しみにあふれていた。


彼と話した時間はたったの2時間程度だったが
沢山のことを思い、感じさせてくれた。


学ぶことに対しての彼の真剣さは素晴らしいものであったし、
それが当たり前になっている日本ではきっと見ることができない、
一つの必死さとも言っていい感情のようだった。
彼の英語力は素晴らしいものだったのだが、
それからもわかるように真剣に教育を求めている姿は心を打つ。

また、一般人とは異なると思っていた彼らがもっと近しい存在だったことにも驚く。
普通の少年と同じように夢を見て、今日を生きている。
モンクとしての立場や生き方も、今生きるための選択肢のようである。

そしてその彼の夢がエンジニアだというのにも、
ある種、決められた未来から抜け出そうとする結果にも見えた。


ここからは想像なのだが、
農家で一人っ子である彼は恐らく通常は家を継ぐ身であるのだろう。
また、勉強がしたいから出てきたという理由もまた、
寺院が一部貧しい家庭の駆け込み寺となっている現実を映しているのだと思う。
それが今の彼の姿を作っているように思う。

ラオスやタイでも学校へ行かず、
物乞いや物売りをしている子供たちを多く見かけた。
また、農家などでは親と一緒に働くこともあるのだろうと思う。

その中から抜け出すために彼はモンクになったのではないか。
また、親がその現実から切り離すためにそうさせたのかもしれない。

しかし、高等教育となるとやはりある程度の資金が必要になるのだろうが、
それがまた、日本で言ういわゆる良い未来を作ることに繋がっているのだろう。
日本と異なり高等教育が一般的ではないラオスでは、
「良い大学→良い会社→幸せ」の法則がまだまだ当てはまるように見える。

また彼と話していると日本や諸外国のプロダクトに対する憧れも強く、
ラオスも同じように製品を作る国にしたいと願っており、
それがエンジニアという選択肢に結びついてるのだと思う。

想像でしかないが、彼の目はそんな思いが積もっているような姿に見えた。


日本にいるとあまり教育や社会インフラなど、
「あたりまえ」になっているものに対しての想いなどは持つことは少ないが、
彼らのような話を聞いていると、「あたりまえ」のものほど重要なことが多いことに気づく。
それが享受できることに感謝をする。

そして「あたりまえ」であるからこそ、おざなりになっていることにも気づく。
金が希少であるから価値があるのと同じで、
「あたりまえ」になっていることには価値を感じることは少ない。

たぶん沢山の「あたりまえ」が僕らの前には溢れていて、
それに気づくことなく生きているんだろうな。
誰かの思いやりや愛情も。

それに気づくことができたなら、僕らはいつも幸せでいられるのかもしれない。



15歳の少年に気づかされた幾つものこと。

オレンジ色の袈裟の中には、なんと沢山の思いが詰まっていることだろう。
彼らもまた人なのだ。