2008年5月15日木曜日

世界一周 in (6)ラオス/モンクの夢は







DATE:2008/05/15 Laos - Luang Phabang -


モンクの夢は意外なことにエンジニアになることだったりする。

今日、訪れた寺院で話をしてくれた15歳の少年の夢は、
まとったオレンジ色の袈裟とは裏腹に未来を見据えたものだった。



今日は朝の托鉢を見ることに失敗。
起きたのは早かった。しかし歩き出した方向は、托鉢とはまったく無縁の方角。
行けども行けどもオレンジ色のモンクは現れることがなかった。
・・・無念。

そんなわけで、10時ごろからルアンパバーンの町を散策することに。

2km四方ほどの町はそんなに大きいわけではないのだが、
朝の托鉢で有名なことからわかるように、沢山の寺院で溢れている。
山の上のプークー宮から、昔の宮廷だった王宮博物館、
ユニークな装飾が施されているxxx寺と、
朝の托鉢風景含めて町全体が世界遺産と登録されているのである。

ラオスの寺院は美しい。
フエサイのころから感じていたが、タイとはまったく異なった装飾なのである。
タイの北部であるチェンライなどとは共通点があるように思えるが、
バンコクなどにある寺院とは別物と言えるかもしれない。

基調の色は赤、白、金。
特に赤をベースにした柱や壁に金で彩った草のような模様が目立つ。
中には壁全体を金のみで装飾した絢爛豪華な建物も目立つ。
扉や窓の装飾も美しく、木に掘り込まれた仏様の彫像に一面金が塗りこめられている。
ステンドグラスのような色とりどりのガラスを埋め込んだ装飾も多く、煌びやかな印象がある。



そんな、寺院をめぐる中で一人のモンクと出会った。
約2時間も話していただろうか。その時間の中で多くのことを共有した。

知りたかった仏教の世界のあれこれから始まり、
大部分は彼の夢や生い立ちなどの聞き役に回っていた。

農家の家に一人っ子として生まれ、12歳の時に出家した彼。
今は寺院の学校で勉強をしているそうだ。

出家の理由も勉強がしたかったからとのこと。
その学校も今年卒業し、次の選択をしなくてはならない。
日本とは大学のシステムが違うらしく卒業後は大学へ行きたいと彼は願う。
そして、その時にはモンクを辞めて一般人へと戻っていくのだそう。

しかしながら、その夢は未だ現実味を帯びておらず
お金の面での苦労があり、今現在では見込みは少ないのだそうだ。
それを話す彼の表情は、悲しみにあふれていた。


彼と話した時間はたったの2時間程度だったが
沢山のことを思い、感じさせてくれた。


学ぶことに対しての彼の真剣さは素晴らしいものであったし、
それが当たり前になっている日本ではきっと見ることができない、
一つの必死さとも言っていい感情のようだった。
彼の英語力は素晴らしいものだったのだが、
それからもわかるように真剣に教育を求めている姿は心を打つ。

また、一般人とは異なると思っていた彼らがもっと近しい存在だったことにも驚く。
普通の少年と同じように夢を見て、今日を生きている。
モンクとしての立場や生き方も、今生きるための選択肢のようである。

そしてその彼の夢がエンジニアだというのにも、
ある種、決められた未来から抜け出そうとする結果にも見えた。


ここからは想像なのだが、
農家で一人っ子である彼は恐らく通常は家を継ぐ身であるのだろう。
また、勉強がしたいから出てきたという理由もまた、
寺院が一部貧しい家庭の駆け込み寺となっている現実を映しているのだと思う。
それが今の彼の姿を作っているように思う。

ラオスやタイでも学校へ行かず、
物乞いや物売りをしている子供たちを多く見かけた。
また、農家などでは親と一緒に働くこともあるのだろうと思う。

その中から抜け出すために彼はモンクになったのではないか。
また、親がその現実から切り離すためにそうさせたのかもしれない。

しかし、高等教育となるとやはりある程度の資金が必要になるのだろうが、
それがまた、日本で言ういわゆる良い未来を作ることに繋がっているのだろう。
日本と異なり高等教育が一般的ではないラオスでは、
「良い大学→良い会社→幸せ」の法則がまだまだ当てはまるように見える。

また彼と話していると日本や諸外国のプロダクトに対する憧れも強く、
ラオスも同じように製品を作る国にしたいと願っており、
それがエンジニアという選択肢に結びついてるのだと思う。

想像でしかないが、彼の目はそんな思いが積もっているような姿に見えた。


日本にいるとあまり教育や社会インフラなど、
「あたりまえ」になっているものに対しての想いなどは持つことは少ないが、
彼らのような話を聞いていると、「あたりまえ」のものほど重要なことが多いことに気づく。
それが享受できることに感謝をする。

そして「あたりまえ」であるからこそ、おざなりになっていることにも気づく。
金が希少であるから価値があるのと同じで、
「あたりまえ」になっていることには価値を感じることは少ない。

たぶん沢山の「あたりまえ」が僕らの前には溢れていて、
それに気づくことなく生きているんだろうな。
誰かの思いやりや愛情も。

それに気づくことができたなら、僕らはいつも幸せでいられるのかもしれない。



15歳の少年に気づかされた幾つものこと。

オレンジ色の袈裟の中には、なんと沢山の思いが詰まっていることだろう。
彼らもまた人なのだ。

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