2009年1月31日土曜日

世界一周(35)ヴァチカン/世界がある場所







DATE:2009/01/31 Vatican - Vatican -


ヴァチカンを書くことをあきらめた。
いや、写真さえも僕の頭の中でだって、
こんな美しい記憶を正確には描ききれていないだろう。

ただ確かなことはサン・ペドロ寺院にたどり着いてから、
僕がそこを離れるまで8時間が経っていたということだ。

食事もせず、ただ僕はその場所に酔い屋上からのローマの景色を眺めていた。

フィレンツェ行きの列車の時間がなければ、
きっともっと多くの時間をこの場所で過ごしたのだろう。
日が暮れてもずっとあの美しい天井を眺めて過ごしていただろう。


そこには空があり大地があり神があった。つまりは世界だった。


相変わらず人間って奴はすげーことをする。

2009年1月30日金曜日

世界一周(34)イタリア/ローマ!














DATE:2009/01/30 Italy - Rome -


口座の残高がわかる証明書、
パスポートに顔写真、そしてクレジットカードにトラベラーズチェック。

全ての対抗策を持ち込み向かうはもちろんブラジル大使館。


イタリアへ来て、しかもローマの初日にやることが
ブラジルの大使館めぐりなんておかしな話だが、
これを取得しなくては旅行の予定も立てられやしないのだ。

手に入れた地図にペンでブラジル大使館の場所をぐるりと囲み、
早朝のローマの町を歩き出した。


一路、大使館!

のはずが・・・、街中に溢れる美術館のような建物の数々に圧倒され、これがなかなか進まない。

そりゃそうだ、このローマの街並みを無視することなんてのっけから無理な話だったのだ。
早々にそれを諦めて観光しながら大使館を目指すことにした。



しかしローマ。すげー!の一言に尽きる。

今まで歩いたどんな街もこのローマの歴史には適う気はしない。
あのパリでさえも歴史的な街並みという点だけで見れば、
ローマの非ではないように感じる。

ただ大通りを歩いているだけなのに、次々と現れる歴史的建造物の数々。
ガラス張りのお店が立ち並ぶ大通りでさえも歴史を感じるのはなぜだろう。

石造りの街並みが畳み掛けるように驚きを運んでくる。
僕はただそれに感嘆の声を上げるしかない。
きょろきょろと街を見回し、すっかりおのぼりさんだ。
もうそんなことはどうでも良い。この街に来てそうならない方がどうかしているのだ。
この街に感激しない奴なんて感情の線がぷっつりと途切れているとしか思えない。


単に街を歩いているだけなのに、
あっという間に時間は過ぎていき、写真の数はぐんぐんと増えていった。
そんなわけで大使館に着いたのはもう午後近くなってから。
当初の予定などどこへやらという奴だった。



大使館の前に着くとさすがに少し緊張する。

準備は万端のはずだ。
後はもう担当官の人といかに仲良くなるかが勝負の鍵だった。

大使館のドアを開け受付の番号札を受け取ると、
すぐに職員のおばちゃんに呼ばれ赤いファイルを渡された。

そこでしばらく待つことになり、
子供と遊んだりしていると名前を呼ばれついに担当官との対面となる。


担当官はブロンドヘアーのおばちゃん。

よし。おばちゃんはどちらかと言えば得意分野だ。
「ボンジュール!」とイタリア語で挨拶をして先制攻撃をかける。
すると思いもよらないことに「日本人デスカ?」と日本語がおばちゃんの口から飛び出した。
「なんで日本語?」と驚いて聞くと、どうやら日本語学校で少し習っているらしい。

こうなればこっちのものだ。
いつもよりテンション2つほど高めで攻め立て、ついにビザ取得の確約を取り付ける。

しかもなんと3日後。

もしかするとこれが普通のことなのかもしれないが、
1週間はかかると思っていたビザ取得を3日でできるとは快挙としか言いようがない。

パスポートを大使館に預けて僕は意気揚々とそこを後にしたのであった。



ビザの問題はなくなった。
となればもう観光モードを邪魔するものはない。

ただでさえローマの街は広いのだ。
時間を無駄にするわけにはいかなかった。

今日回る予定の場所は、
パンテオン、トレビの泉、コロッセオ、そして真実の口の4つ。
言わずと知れた観光地を今日一気に回る予定だ。
まるでツアー観光客のような日程だが、
それもまぁ南米行きの日にちが迫っているので致し方ない。




はじめに訪れたパンテオンの前では、
観光客相手の被り物を着た太ったおっさんが似合わない騎士の格好をしている。
どう考えても規格外の騎士は手に持ったピザをむしゃむしゃと食べながら客引きをしていた。
それもまたイタリア人ってことのようだ。


パネオンは外観から見るだけだとアテネのものとそう変わらないように見えたが、
中に入ると思いがけずその均整の取れた美しさに感嘆する。

特に天井部分のドームがすばらしく美しかった。
ミケランジェロが天使の設計と絶賛したのも良くわかる。

天井の中心に開けられた円形の天窓からはまあるい形の光が差し込み
それが天井の幾何学的な模様をなぞるようにゆっくりと動いていく。

円形の内部にはラファエロの墓も置かれている。
なにも死んでから見世物にならなくても良いではないかと思うが、
それもまた天才の宿命なのかもしれない。
墓の上には彼が作ったマリア像が飾られていた。



世界最大の石造りの建築を後にしてトレビの泉まで歩く。

それにしてもどこもかしこも美しい遺産ばかりだ。
そのどれもが他の町にあれば一番の観光名所になるだろうに、
この街にあると単なる目印にしかならないのが不思議だ。

目的地までの道を行くだけでいくつの地図に載っていない、
美しい建物や彫刻を見たことだろう。
それがローマという街のようだ。芸術品さえも日常になる街。
訪れたものはその贅沢さに呆れ、ただ驚くしかない。



トレビの泉にたどり着くと多くの観光客でにぎわっているのが見えた。
もちろんほとんどの観光客はこの泉にコインを投げ込むために来ている。

だれが作ったのかは知らないが、
この泉に後ろ向きでコインを投げ込むともう一度ローマに戻って来れるという言い伝えがある。

僕はコインを投げ込まずにここを後にした。
なぜならばどちらにせよローマにはもう一度戻ってくるからだ。
再訪を願うのは次に来てからでなくては意味がない。



コロッセオに向かう途中に驚くほど巨大な建物を見つけて思わずそこに入ってみる。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂という名のそこの内部は美術館のようになっている。
2階部分へとあがるとローマが見渡せる場所へと出る。

高台から見下ろすと尚のこと良くわかるが、異様なほどの歴史的建造物が乱立している。
どの角度から見ても何かしらの観光名所が2つはある。

視線の向こうにはこれから訪れるコロッセオも見渡せた。
その付近には見えはしないがカラカラ浴場があり、ローマ遺跡群が広がる。
この場所から見てみもローマの半分も見渡せないのだ。

そしてその逆側にはまだ見ぬバチカンも存在する。
一日や二日でこの街を見て回ろうなんてのが無理な話なのだ。
ここまで広いと逆に諦めもつくものだ。
今回の旅では見られないだろういくつかの遺跡。
それはまた次の機会に。ということにした。




ローマと代表する建築物といえばやはりコロッセオだろう。

そう思い訪れたが、今まで多くの劇場を見てきたからか、
なぜかそれほど素晴らしいものとは思えなかった。

フランスでアルルの美しい闘技場を見てしまっているからかもしれない。
ローマのコロッセオは朽ち果てた廃墟のようで、
それ良い味を出しているという面もあるがローマに立つ他の美しい建築物と比べれば、
なんだか場違いな感じがしないでもなかった。

ある意味では異様であることがこの場所にあるコロッセオの価値なのかもしれない。

天井が崩れ落ち、地下の舞台装置が見え見えになったコロッセオは、
骸骨のような印象を僕に与えた。

多くの剣闘士が戦い死んでいったその場所は、今度は己さえも屍へと変えている。
結局、争いが残す結果などそんなものなのかもしれない。



本日のラストに持ってきたのは真実の口。

映画ローマの休日で有名なその場所はたくさんの観光客が並んでいて、
写真撮影は一人1枚までとの規制の下、
真実の口の中に手を入れた姿の写真を入れ替わり立ち代りみなが撮っている。

もともとはマンホールの蓋だったという噂のそれに手を突っ込んでいるのはいかがなものかと思うが、
喜んで手を入れているところを見るとみな心の清い正直者なのだろう。
なにせ、嘘をついたものは手を入れると抜けなくなるという話なのだから。
実際それが本当で口の中が観光客の手で溢れていたら面白いのだが。

そんな真実の口だが、
中国人観光客のもの凄いスピードでの記念撮影が面白く動画を撮っていたら
入場時間を過ぎてしまっていたらしく、あえなく口を目前にしてその場を去ることになった。

まぁ、面白い動画が取れたからそれもよしとしよう。
僕が口に手を突っ込んだならば抜けなくなってこの旅が終わってしまうこともありえるのだし。



と、急ぎ足で観光したのだがそれにしてもローマは凄い。
町全体が観光地でどこに行っても驚きと感動がある。

もうただ凄いとしか言えない街など初めてだった。

いままで訪れたいくつもの街がかすんで見えるほど、
ローマの街は衝撃的なインパクトで僕を迎えてくれた。

この街は何度来ても飽きることなどないだろう。
それほどに奥深く、長大な歴史に満ちている。


ローマを知らずして歴史は語れない。


その言葉に嘘はない。


つーかすげーよローマ!

2009年1月29日木曜日

世界一周(34)イタリア/イタリア編始まり!!







DATE:2009/01/29 Italy - Ancona -


ゆっくりと速度を落とし始めた船は、
石造りの建物が立ち並ぶイタリアの町へと静かに身を寄せた。


目の前には思い描いていたイタリアの街並みが、期待どおりの姿である。

その驚きに興奮を隠し切れず甲板の上で一人はしゃぎ、
このイタリアの旅が確実に楽しくなることを予感した。



南米行きのチケットの期限があるため、
ここイタリアもまた急ぎ足で回らなくてはならない。

フェリーの到着地点アンコナの町を離れてからは、
ローマ、フィレンツェ、ピサ、ミラノ、ヴェニスと向かう予定だ。

途中ローマでブラジルのビザを取得しなくてはならず、
それが日程を大きく左右させる原因でもあるが、
今のところは最長で1週間程度の足止めとなりそうで、
その期間をどう過ごすかが課題でもある。

まぁ、その辺は行ってみなくてはわからない。
そんなわけでこのイタリアの旅がどうなるかはいまだ不明だ。


フェリー乗り場から駅まで1キロほどの道を歩く。

その町並みも特に特別な町でもないはずなのに、
やはりそれはイタリアで重い荷物もどこか軽く感じさせてくれる。

駅で無事にローマ行きのチケットを買い、
発車までしばらく時間をつぶした後、
発車ぎりぎりで乗り込んだ列車が違うことに気づき、
大慌てで別の列車に乗り込むドタバタなスタートを切った。

アンコナの町からローマまでは6時間ほどの長丁場。
列車はぐんぐんと田舎の風景の中を進んでいく。

イタリアの田舎は思ったよりも単調で、
ギリシャのあの風景を見た後だったからか、
単調過ぎて物足りなさを感じた。

それでも時折通り過ぎる町の風景は遠くから見ていても面白い。

丘の上に立つ教会、彫刻が刻まれた建物たち。

どうやらイタリアは町を楽しむところらしい。
車窓から外を眺めながら、そんなことを考えた。



ローマの巨大な駅にたどり着くと、
多くの人があふれていてこの街が思った以上に大きな所だと気づく。

イタリアをはじめヨーロッパの駅の形は、
日本人が思う駅の形とは大きく違っている。

簡単に言えば大きなかまぼこ型のドームの中に、
いくつもの、多いときには20以上の線路が引かれていて、
改札などはなく乗車の時に車掌に渡すか、
乗車したまま車掌が来るのを待つかのどちらかである。
もちろん車掌が来ないこともままあるが、それはまぁご愛嬌。
考えてみれば無銭乗車を見逃したほうが、
改札の設置や車掌を雇うよりも安くあがるという気がしないでもない。

切符の多くは自動販売機で買うことができ、
自販機の言語は英語を始め近隣諸国のものを選択できることが多い。
これもまたヨーロッパらしいところである。

ちなみにこの自販機の近くでじっとしている怪しいおっさんは、
時たま自販機のお釣りの取り忘れがないかをチェックしている、
ホームレスのおっさんである。まぁ、そんな人もいる。



久々の大都市に戸惑ったがすぐに感を取り戻し、
とりあえずは近くの宿にチェックインすることにした。

イタリアということで少しは警戒していたが、
ローマ中央駅周辺は人通りも多いからか、
それほど危険な雰囲気はしない。

夜の街灯の下でもわかる美しいローマの街並みを楽しみながら、
宿へと向かった。



宿の受付の女性に部屋は空いてる?と聞くと、
少し高い4人部屋ならあるわ、と言い僕はそれにOKと言った。

チェックイン用の用紙に記入し、
料金の説明を聞いてみると、
なんだか最初に聞いていたのと値段が違っている。

値段違うよね?と言うと、
「あぁ、さっきのは3泊以上の場合。これは2日の料金よ」と言った。

持っていたガイドブックに本を見せれば10%引き、
との表記があったので、これは使えるの?と聞くと、
なぜか「使えないわ」との答え。

でもここに書いてあるけど。と食い下がると、
「すでにディスカウントしているから」と返ってきた。


いつもなら。

まぁ、別にどーでもいいやとなるのだが、
ここはひとつイタリア人の対応ってやつを見てみたいと思い、
「でもそれはおかしい。だってこっちの10%引きの方が安くなるでしょ」と、
ボールを投げてみる。

頭を坊主に丸めたファンキーなイタリア姉ちゃんの顔が曇る。
そしてここに日本対イタリア戦が幕を開けたのであった。


2つのディスカウントがあって、その安いほうを選ぶ。
どう考えても正しいその理論がなぜかイタリア娘には通じない。
じゃぁ、幾らからディスカウントされてるの?と聞いても、
探してきた値段は結局今提示されている値段とも変わらない。
じゃぁ、この本に嘘を言ったと言うこと?と聞いても、
「知らない。私はオーナーじゃない」の一点張り。
最初、使えない理由は2重ディスカウント。と言うことはこの本は正しいよね?「知らないわよ。」
じゃぁ、オーナー呼んで。と言うと彼はいま寝てるの一点張り。
挙句の果てには「私は今仕事してるんだからじゃましないで」と、
僕を無視して勝手に事務作業を始めてしまった。

まぁ、こんなもんか。とイタリアのサービスレベルがわかったところで、
ともかく納得したことにして、彼女の事務作業が終わるのを待った。

事務作業を終えた彼女は、
僕の根気にも負けたのか表情を崩し「チェックインする?」と聞いてきたので、
「もちろん」と答えてなぜか芽生えた友情の握手を交わした。
もちろん値段は最初彼女が言った値段のままだったが。

ちなみにその彼女の後ろには
「インターネットでの申し込み料金はネットで申し込んだ人のみ」
との表記があり、後で調べてみるとなんと定価よりも30%も安かったことは、
さすがイタリアの料金体系というべきものかもしれない。なんだそりゃ。


イタリア娘、ナナとの対決を終え無事に荷物を部屋に下ろしてから、
ナナにおいしいパスタ屋さんを聞いて食べに行く。


出てきたパスタは思ったよりも硬い。
久しぶりにきちんとアルデンテだったのには感動したが、
イタリアのパスタってこんなものか。味はおいしかったのだけれど。

さておきワインの質は上々!
フランスに続き久々のワインライフになりそうだ。



美しい街並みに、おいしい食事とワイン!


さて、イタリア編をはじめよう!

2009年1月28日水曜日

世界一周(33)ギリシャ/流民の旅






DATE:2009/01/28 Greece - Patra -


おぃ。目覚ましつけてねーじゃねーか。俺。


偶然にも6時5分前に目を覚ました僕は、
携帯のアラームを止めようと思い、それに気づいた。

危ないところだ。
この列車を乗り過ごせばイタリア行きのフェリーにも乗り遅れるところだった。
これを逃せばまた次のフェリーまで何日か待たなくてはならない。

幸運に感謝し急いでパッキングを済ませると、
朝のアテネの町を歩き電車のターミナルへと向かった。


今日はここからギリシャ西端のパトラという港町へ列車で行き、
そこからイタリア行きのフェリーに乗り込む予定だ。
一泊二日の船の旅を終えればもうイタリアへとたどり着く。

あっという間のギリシャの旅だったが、
メテオラ以外はさして良い思い出もなく、
イタリア行きが楽しみでもある。

辛気臭いギリシャ人とも、
塩っ辛いチーズ入りのパンだけの食生活ともこれでおさらばだ。



走り出した列車はすぐにアテネ郊外へと抜け、
後はひたすらの田舎道を進んでいく。

電車はどうやら長距離列車ではなく、
アテネと郊外を結ぶ近郊列車のようで、
終点で乗り換える必要があるようだった。

東京を縦断する中央線のような路線らしく、
早朝らしく沢山のサラリーマンやら学生やらが乗り込み、そして降りていった。



単調な田舎道の視界がぱっと開けた。

ぼんやりと外を眺めていた僕は不意のその変化に驚き、
思わず窓の外の景色にぽかりと口を空けた。


青い空。そして青い海。

立ち並ぶ白い家々の庭にはまあるいオレンジが実り、
ところどころには明るい黄色に色づいたレモン畑が見えた。

これがギリシャか。

今更ながらにそう思った。
この旅では訪れることのできなかったエーゲ海の景色とは、
きっとこんな美しいものだったのだろう。

エーゲ海とは反対側のイオニア海へと続くコリンティアコス湾にもまた、
どこか映画で見たような絵のような景色が広がっていた。


しかしこの違いは何なのだろう。

ギリシャの田舎に広がる美しい世界と、
都市部に広がる重苦しい雰囲気。

同じ国とは思えないほどの差がそこにはある。

そこに暮らす人々もそうなのだろう。

小さな町であるメテオラでは嫌な思いは一度もしなかったし、
その町の雰囲気も温かさにあふれたものだった。


列車の中からこの景色を見ているうちに、
「もう一度来たいな」という気になっている自分がいた。

この町を、そしてエーゲ海の島々を訪れれば、
僕はまた新しいギリシャを発見できるかもしれない。
憧れにも近いそんな思いが僕の胸の中に満ちていった。



列車は途中小さな町で止まり、そこでなぜかバスに乗り換えて、
1時間ぐらい走り、また列車に乗り換えた。

なんだかわからないが線路が分断でもしているのかもしれない。
ともかくまぁ、この景色を見ながらの旅行であれば何があっても悪くはない。



「俺はパスポートを持っていないんだ」

アテネから列車に乗って1時間ほどして、
仲良くなった目の前の座席の男はそう言った。

僕はそれが何を意味しているのかがわからず、
ただ「どこから来たの?」と聞いた。

彼は言った「アフガニスタンだ」と。

アフガニスタン。僕は彼らの国についてほとんど何も知っていない。
思いつくのはタリバンや内戦といったキーワードぐらいだ。

話を聞くと彼はアフガニスタンを抜け出し、
イラク、トルコを旅して今、ギリシャへとたどり着いたそうだ。
そしてこれから僕と同じようにイタリアへと渡り、
兄の住むロンドンへと向かうつもりなのだという。

パスポートなしでどうやって?と聞くと、
ギリシャまではパスポートは要らないんだ。と言った。

どういったわけかはわからないが、
中東諸国とギリシャの間でそういった取り決めでもあるのだろう。
そう思ってイタリアは?と聞くと、

「イタリアからはパスポートが必要だ。これが問題なんだ」と彼は言った。
そりゃそうだ。と僕は思い、どうするつもり?と聞いてみると、
「イタリアまでは2000ユーロ。ロンドンまでは4000ユーロもかかる」と答えた。

でも僕のイタリア行きのフェリーのチケットは2万円もしないよ。と言うと、
彼は俺はチケットは持っていない。と答えた。

彼の英語は覚えたてでそれ以上の話を聞くことは出来なかったが、
きっとビザの金額が高いということを伝えたかったのだろう。

僕ら日本人はほとんどの国をビザなしで回ることが出来るが、
多くの国々は入国や出国の際にいくらかの税金やビザ代を払う必要がある。
例えば日本人はたった8ドルのシリアの入国ビザでさえ、
アメリカ人であれば100ドル以上の金額を払わなくてはならず、
それですら入国可能かどうかは定かではない。
同じようなことがアフガニスタン人が旅行をするときに起こる事は考えられた。

「そりゃ気の毒に」と僕が言い、「そうなんだ。問題なんだ」と彼が言った。

いろんな旅人がいるものだ。その時はそう思った。



列車を乗り換えてからも延々と美しい景色は続いていく。
白い家とオレンジの木の組み合わせはこの世の理想の家のような気がしてくる。

まばらだったその白い家が少しずつまとまり始め、
いつの間にかそれは町になり列車は終点のパトラへとたどり着いた。



パトラの町にはなぜか汚れた格好をした人々が駅の線路に屯している。

最初はギリシャ人かと思ったがどうやら顔が異なり、
どこか別の国からの移民であるように思えた。

列車で一緒だったアフガニスタン人に挨拶をしようと探したが、
彼は携帯電話に向かって何かを話しかけていて、
なんだか近寄りがたい雰囲気だったので
僕はそのまま無言でさよならを言いフェリーのターミナルへと向かった。


無事にフェリーの乗船券を手に入れてフェリー乗り場に向かう途中の道にも、
沢山の移民らしき人々がただうろうろとしている。

線路に座り込んだ彼らと目が合い手を上げると彼らは笑って手を振り替えした。

カメラを向けると照れくさそうに笑い各々好きなポーズで構える。
そんな彼らの姿を写真に収めると「どこから来た?」と聞かれたので、
「ジャパン」と答える。
すると感性が上がり、彼らは明るく手を振って僕を見送ってくれた。

顔を見るとどうやらアジア系の人種らしく、
どこから来たのかは知らないが何か親近感を感じる。
彼らはいったい何者なのだろうと思いながら歩いていると、
近くに止めてあったパトカーから警官が話しかけてきて、
「何人?」と聞かれた。

「日本人だ」と答えると、そうかと言って緊張をほぐした。
「ねぇ、彼らは何者なの?」と聞いてみると、
警官はなんでそんなことに興味があるのか、といった顔でこう答えた。



「アフガニスタン人だ」



僕の頭に先ほど列車で一緒だった男の顔がよぎった。


「彼らはここでイタリア行きの船に乗ろうとしている。
が、もちろん不法滞在だ。だから我々が取り締まっている」そう警官が続けた。

線路のほうを見ると警官らしき人間が彼らを追い払おうと、
棒を振り回しながら羊飼いのように追い立てている姿が見えた。
アフガニスタン人たちは慣れたように笑いながら羊のように奥へと移動していく。


そうか。そうだったのか。


僕は警官にお礼を言い、フェリー乗り場へとまた足を進めた。



今日僕が出会ったアフガニスタン人は難民だったのだ。
パスポートを持たず旅をする旅人。僕はそう勘違いしていた。
そうではない、彼らは国を捨ててこの場所に向かっていたのだった。

そう考えればイタリア行きの料金が2000ユーロもする理由もわかる。

それはきっと密輸船でその不法な船に乗るために、
彼らは法外な料金を払う必要があるのだろう。

そしてそれに乗れない人々がいま、
このパトラの町に屯し難民の群れを作っているのだ。

彼らにとっての旅の終点はいまここにあったのだ。



僕は何も知っていなかった。
列車で会った彼を旅人だと思い込むほどに。
そういえば幾つもの国のスタンプがついた僕のパスポートを見る彼の目は
どこか遠く諦めに似たような顔をしていた。
それを自慢気に見せた僕はなんておろかな人間なんだ。


それでも難民である彼らが笑っていられるのはなぜなのだろう。
線路の上に座り込んだ彼らの顔はみな一様に明るかった。

絶望などは微塵も感じさせない、その笑顔には
「どうにかなるさ」という達観に似た人生観を感じさせた。
もしかしたらこんな状況でも彼らの国にいるよりはマシなのかもしれない。
もしくは彼らの信じる神のおかげなのか。


どちらにせよ。彼らはきっと彼らの人生を嘆いてはいないのだ。
そんな彼らを見ていると
不満顔で生きるぶっきらぼうなギリシャ人に比べて、なんて素敵なのだろうと思った。



愛も変わらず無愛想な受付でチェックインを済ませ荷物を置き、
甲板に出て外の空気を吸う。

港からは線路が見え、そこには相変わらずアフガニスタン人たちが、
のんきに屯している姿がある。

痺れを切らした警官がパトカーに乗り彼らを追い立てると、
警官をからかいながら彼らは奥へ奥へと下がっていく。

それもつかの間の話で、
ちょっと目をそらせば壁を乗り越え町へと抜け出す人もいる。

その彼らを見つけたのか
町の方からは別の警官が追い立てながら元の場所に押し込もうとしている。

そんな堂々巡りの戦いを見ているとなんだか笑えてきた。


「がんばれよ!アフガニスタン人!」


いつの間にかそう応援している自分がいる。

そのまま密入国されるイタリアはたまったものではないが、
彼らのチャレンジ精神はどこかコメディーのようで単にがんばれと言いたくなる。

そんなコメディーを見ているといつの間にか船は出港の時間になり、
ギリシャの港をゆっくりと離れていった。


僕は手を振る。

ギリシャと彼らに。

いつかまた会えたなら。そう思い手を振った。





船の中でゆっくりと日記を書く。

今日の日付を見るといつの間にか旅に出て1年が経っていることに気づいた。

そうか僕の旅はもうそんなになるのか。
そう他人事のように思った。

365日分の思い出を振り返り、
それでもやはり僕の旅の終わりはまだここじゃないと思った。
今日手を振った彼らと同じように。

もっと遠くもっと誰かに。

思い出を語るのはもう少し後でいい。




甲板に出て空を見ていると、
夕日が空を燃やしながらイタリアへと沈んでいった。

ぐるぐると周る地球のように僕の旅は明日も続いていく。



僕は手を振った。


今度は太陽に向かって。

2009年1月27日火曜日

世界一周(33)ギリシャ/アテネ






DATE:2009/01/27 Greece - Athens -


なぜだかはわからない。

特に特別だと思ってもいなかったが、
パルテノン神殿の目の前に立つと感動の波に僕は襲われた。


アテネの町の中心に立つ小高い丘にあるパルテノン神殿は、
ギリシャの象徴と言ってもいい歴史的建造物だ。

もちろん神殿含め多くの関連する建築物が世界遺産にも登録されている。

良く知られているように、
現在神殿は修復中で神殿の周りをギブスのように、
鉄パイプの足場が囲んでいるが、それでもその偉容はひしひしと感じる事ができた。


神殿が建つアクロポリスの丘の上からは、
アテネの町を一望することができる。

そこから見るとこの丘一帯が、
ローマ時代の遺跡で取り囲まれていることがわかる。

ローマ劇場や、アゴラの町など、
白い大理石の石柱が丘の一帯には所狭しと立てられ、
そこが昔、とある大帝国の中心であったことを物語っている。

ところどころ修復した建造物が、
新し過ぎて単なる新築の建物にしか見えないのはご愛敬と言ったところか。
ギリシャ人の考えることは良くわからない。



見下ろしたギリシャの町並みは何か物悲しい雰囲気をしている。

それは最近起こった暴動のせいなのか、
そもそも停滞する経済のせいなのかはわからないが、
ギリシャの都市は最初に訪れたテッサロニキをはじめ、
同じような廃退感を感じさせるのはなぜなのだろう。

昨夜たどり着いたアテネの町に立ったときの、
ピリピリとした薄暗い雰囲気を思い出した。

夜というのは不思議なもので、
その町の雰囲気が如実に現れる。

そしてここアテネの町は今まで旅をしてきた中でも、
最大限に警戒心を刺激させる町だった。

夜中たどり着いた僕が次の町への行き方を聞きに観光案内所に行くと、
呆れるほど横柄な態度のスタッフに無言のまま時刻表を指差され、
ギリシャ人の印象はますます悪くもなった。





丘の上に吹く風を心地よく思いしばらくのんびりしていると、
誰かが僕を呼び止めた。

「ここの石を持ち帰ってはいけません」

え?

最初は何を言われたのかがわからなかった。
服装を見るとどうやら警備員のようだった。

戸惑っていると女性警備員がもう一度僕に同じ言葉を言い、
「あなた石を拾ったでしょう」と付け加えた。

なんだそりゃ。そう思い「拾ってないよ」と言うと、
その女性は明らかに疑惑の顔を浮かべている。

その態度になんだかムカついてきて、
「調べなよ」とポケットを指差すと、
めんどくさそうに「いいわ。信じるわ」と横柄な態度のまま向こうへ行ってしまった。


信じる?なんだそりゃ。間違っていたら誤るのが道理だろ?

丘を降りるころにはすっかりギリシャ人が大嫌いになっていた。

横柄な態度。笑わない店員。道を聞いても知らん振りの人々。
こんな人々が暮らしている町など、停滞感が漂っていて当たり前だ。



数ヶ月前、ある学生が警察官に殺された。

それがつい先日ギリシャで起きた暴動のきっかけだったという。
暴動は瞬く間にギリシャ全土に広がり、
銀行や商店などが軒並み襲われたのだそうだ。

きっかけは何にせよ、
結局は不満の募る一部の暴徒が暴れる理由にしかならなかったそれは、
単に憂さ晴らしになってしまったそうだ。


この町の人々を見ているとそれもわかる気がする。
ただ与えられた仕事を嫌々しながら生きている人々。
沢山の未来を諦め顔で見つめる人々。

そこにはアジアの成長の熱気もなく、
ヨーロッパという過去の栄光とプライドにすがっているようにも見える。
行き詰った現在に革命を起こす気力すらも感じられない。


僕らが世界に対してできることなんて、たった2つしかないのだ。

全てを受け入れて満足して生きるか、革命を起こすかのどちらかだ。

僕は諦めや不満をコレクションして生きるなんてまっぴらごめんだ。



過去の栄光の跡。

僕が感じたアテネの町はそんなところだった。

2009年1月26日月曜日

世界一周(33)ギリシャ/中空の修道院











DATE:2009/01/26 Greece - Meteora -


そびえ立つ奇岩の上に立つと町を全て見下ろせる。

修道院をこの場所に作った理由もわかる気がする。
単に隠者の生活をしたければもっと別の場所にすればよい。
この場所へ修道院を立てたのはきっと。


ギリシャのメテオラは
垂直に切り立った崖のような奇岩の上に立てられた修道院群で有名な町だ。

その景観は他に類を見ることがなく、
神秘の世界に包まれている。

町からもその奇岩とその上に立つ修道院を見ることができ、
元は隠者の隠れた生活だったものが、すっかり観光地になっている。

修道院までは道路が張り巡らされているものの、
現在もしっかりとその生活は続けられていて、
中世のままの隠者の生活が守られている。

しかしそれでも更なる静寂を求めて、
アトス山などの別の静かな場所へと移り住む信者も多いそうだ。



町からのバスは冬季には運行していないらしく、
僕はいつもどおり足で目の前をそびえる山々を登り修道院を目指すことにした。

町から見えるほど教会は近くに見えるのだが、
その間の山道は険しく1時間ほど山歩きを続けることになる。

が、その景色は絶景と表現するしかなくただただすばらしい。
ここに修道院などなくても観光地とするには十分なほど。
茂みを掻き分けながら奇岩の間をすり抜けていく山道は、楽しくてしかたながない。



山道を抜けて修道院の前に立つ。
しかしそれはまだ奇岩の前に立ったというだけだ。

アギア・トリアダ修道院はその頂上に立っている。
30メートルはあろうかという巨大な岩の塊が目の前にはある。

昔、ここで争いがあった時は防御のため、
頂上から吊るされた紐を使って荷台に乗って登ったらしいが、
今ではしっかりと階段が開放されている。


階段を登りきると物語のような小さな修道院が天の家のようにぽつんと建っている。

なにせ教会の水平線上を目で追っていくと、
すぐに地上は途切れて空になってしまうのだ。

小さな家の周りにはきれいな青い芝生が茂り花が咲き乱れている。
その庭の上をのんびりとあくびをする猫が寝転ぶ。

その小さな修道院。
美しいフレスコ画が描かれた聖堂。

教会の奥から外に出ると町中が見渡せる岩の上に出る。


メテオラの町は真っ白な壁に赤い屋根が美しい。
その清々しい姿は思い描いていたギリシャの姿だった。

町の向こう側には白い雪を抱いた山々が悠々と聳え立っている。
その景色を見るといつまでもここにいたくなった。

単に美しいものを見たかっただけ。
もしかしたら、ここに隠れ住んだ人々はそんな単純な理由で世を捨てたのかもしれない。
ここに立つとそれもわかる気がする。
奇岩の上の、中空の世界は浮世を捨てるのには十分な魅力に溢れていた。


1つ目の修道院を離れて道を歩いていると、
黒いベールをまとった女性に出会った。

その女性はアスファルトの道の上を物言わず黙々と歩いていった。

きっとさらに奥にある女子修道院へと向かっているのだろう。
彼女たちの暮らしはこの場所にある。
なぜそのような生活を選んだのかは僕には想像もつかないが、
慣れてしまえばこれはこれでよい人生なのかもしれない。

ただ静かに生き、死んでいく。

誰かと違う特別になろうと必死でもがき、
都会の海に溺れていくよりはまったくましだ。


メテオラの修道院をめぐる道はどこを歩いていても美しい。

一歩一歩表情を変えていく岩や森たちが、
どこをとっても絵になってしまい写真など構図を考える必要もないほどだ。

シーズンオフだからか道を通る車もほとんどなく、
もちろん歩いている人なんて僕一人ぐらいだ。

1時間ほど歩いているとようやく赤いスクーターに乗ったおっさんが通り、
僕の前を手を上げて通り過ぎていった。



メテオラには大小6つの修道院があり、
全盛期には24もの教会がこの辺りにはあったそうだ。

戦争の歴史もあったそうで、
総本山である大メテオロン修道院には美しいフレスコ画の他に
そういった歴史を飾る博物館もある。


一日中その絶景の中を歩き回り3つの修道院をまわり、
帰り道はへとへとになりながら町へ戻りアテネ行きの列車へと飛び乗った。



美しい景色。そしてそこに生きる人々。

2009年1月25日日曜日

世界一周(33)ギリシャ/薄暗い街角は










DATE:2009/01/25 Greece - Thessaloniki -


朝、起きてみるとまだ6時だったが、
周りは人でにぎわい始めていて、
ヨーロッパでさすがにこの状態はまずいだろうと、
ホームレス状態の駅前ベッドを仕舞うことにした。


運が良ければ早朝の列車やバスに乗り継いで、
そのままメテオラへと抜けるつもりだったが、
どうやらそれは難しそうだ。

ともかく唯一の望みであるバスにかけてみる事にして、
市バスに乗って長距離バスターミナルを目指すことにした。


長距離バスターミナルにたどり着いたのは7時前だったが、
バスオフィスのオープンは8時からだったので、
仕方なく待合室の椅子に座りオフィスが開くのを待つことにする。

昨日聞いた「バスはストライキでストップしている」との情報はどうやら嘘であったようだ。
バスターミナルは何事もないように動いているし、
オフィスにはメテオラ行きの時刻表もきちんと張り出されている。

これならば今日の午前中にテッサロニキを出て、
午後にはメテオラへとたどり着けそうだ。
特に観光をするつもりはないが情報収集や宿探しはゆっくりできる。

そう思いのんびりと待っているとオフィスが開いたようなので、
チケットを買いにオフィスに向かった。


結論から言うとバスは夕方5時の便しかないそうである。

昨日聞いた情報はどうやら一部正しかったらしく、
それがストライキではなく道路の分断だっただけで、
結局、夜にしか出発できない事実は変わらないのであった。


そうなれば仕方がない、
一応、世界遺産に登録されているテッサロニキの町でも観光して時間をつぶす事にした。

バス会社のオフィスに荷物を置かせてもらい、
バスターミナルからふらふらと歩き出す。

特に目的地があるわけでもないので、
駅まで2キロほどの道を歩いて戻ることにした。


道を歩いていると教会が目に入ったので寄ってみると、
どうやらミサの最中だったらしく人がぞくぞくと集まって来ていた。

そういえば今日は日曜日だった。
聞いてみると入っても良いとのことなので、
信者でもないがミサに参加させてもらうことにした。


祭壇上では祭司と思われる人が、
お香を焚いたり、お経のようなものを述べたりと、
なにやら儀式らしいことをしている。

何の合図かはわからないが、
決められた手順があるようで信者たちは、
あるタイミングになると立ち上がり十字架を切ってみたり、
決められたお経のようなものを唱えたりしている。
僕もそれに習って立ったり座ったりを繰り返した。

面白いのが信者の年齢層や入ってくるタイミングで、
お年寄りはミサの最初からほとんど揃っているが、
徐々に中年の夫婦が連れ立って現れだし、
最後には子供連れの親子がわいわいとやってくる。

若い人たちはほとんど現れない。
それが宗教の現状なのかもしれない。
イスラム教でもキリスト教でも、
若年層の宗教離れは深刻な問題なのかもしれない。

宗教が要らなくなっている理由はなんなのだろう。
ともかく100年後は殆どの人々が無宗教なんてこともありえるかもしれない。
そうなればもしかしたら戦争も起こらなくなるのだろうか。
淡々と続く儀式の中で、そんな事を考えた。

しかしながらこのミサというのはとことん長い。
インドネシアでイースターの儀式に参加したときも思ったのだが、
2時間、3時間はざらである。
この町のミサも8時に始まり、終わったのは10時半だった。

月に1度ほどならばいざ知らず、
毎週に1度となれば若者が離れていくのもわかる気もする。
形式ばった儀式に毎週なんて付き合ってられるか。若者は暇じゃないのだ。

このミサというのもキリスト教らしい特徴を良く表している。
仰々しく、派手で、エンターテイメント的。
それはイスラムとはまったく異なるものだ。

教会の壁に描かれたさまざまな絵を見ても良くわかる。
彼らは奇跡を信じ、それを信仰する。
イスラム教はただコーランのみを信じる。


ムハンマドは最後の預言者である。

コーランを作った人はなんと頭が良いのだろう。
突然、そんなことを思った。

これを書いてしまえば後の権力争いは起こらない。
キリスト教の歴史を見ればそれがどんなに意味があることかが良くわかるだろう。
それはまたヨーロッパの歴史でもある。


3時間弱のミサは面白くもあったが、
さすがに若干退屈でもあった。
まぁ、ともかく僕は一つのことを実感することができた。

キリスト文化圏に戻ってきたのだ。

ここではもうイスラムのアザーンの声は聞こえない。



教会を後にして駅に向かって歩くと、
なぜか羊を丸ごと一匹解体しているところに出くわした。

作業をしている人の足元には首がまるごとごろりと転がっている。
そぎ落としている羊の皮の下には、
きれいなピンクの肉が見えていてそこからは湯気が上がっていた。

何をしているの?

と聞いてみたが追い払われたので素直にそこを後にした。
なんだかわけのわからない町だ。



駅に戻りインフォメーションセンターに行こうとすると、
突然警察に呼び止められた。

なんだ?と聞くと、何をしていると聞かれる。

その横柄な態度になんだかムカッと来て、
ぶっきらぼうに駅に行くだけだと言うと、
パスポートを出せと言われた。

パスポートを叩きつけるように手のひらに載せると、
バカみたいにぺらぺらとページをめくって、
ビザはどこだ、と聞いてきたので、
知らないの?日本人は要らないんだよ。と言うと、
諦めたようにパスポートを返しどこかへ行ってしまった。

普通なら気にもしない警察官のいつもの態度に、
なぜかイラついたのは、彼らが僕の顔を見て
単にアジア人だからという理由で呼び止めたからだ。

何かそのことが気に入らなくギリシャ人の印象は悪くなった。


インフォメーションセンターのスタッフに、
投げるように地図を渡されてさらに気分を悪くしてから、
町をさらにふらついた。

テッサロニキの町には過去の遺跡が町中に点在していて、
それが世界遺産として登録されている。

町を歩いてみると普通の町の中に突如として古い教会があったりして、
その奇妙な光景に驚くことになる。
何せ普通のビルの合間にローマ劇場があったりするのだから。
それはユニークではあるが、なんとなく無理やりな感じもする。

面白いのが町中にあるプチ教会のような場所で、
道の角などにキヨスクのような大きさの教会が立っていて、
そこで道行く人たちがお祈りを捧げたりロウソクを立てたりしている。
ここには若い人たちも訪れていて、
これが教会に行く代わりの簡易教会なのかもしれないと思った。
このプチ教会がこの町特有のものなのか、
それともギリシャ特有なものなのかはわからないが、
これまで見たことのないユニークなものだ。
もしかしたらギリシャは他のヨーロッパの国々よりも、
宗教心があつい国なのかもしれないと思った。

ギリシャ正教という宗教を聞いたことがある。
カトリックともプロテスタントともまた違う宗教。
ひとえにキリスト教と言っても、
その土地土地に違いがありそれがまた面白くもある。



それにしてもこの町はどこか暗い雰囲気が漂っている。
会った人の印象が悪かったせいもあるのだろうが、
日曜であることもあるだろうが、
曇り空の天気のせいもあるのだろうが、
どこかこう、鬱々とした雰囲気を感じる街なのだ。

街を歩けば落書きと破れたポスターばかりだし、
壁が崩れ中が丸見えになった廃墟がいくつも見える。

ギリシャらしい美しい町並みはそこにはなく、
ただ亡霊のような香りがそこには漂うばかりだ。


丘の上の城まで行ってみようかと思ったが、
迷路のような上り坂と薄気味の悪い町並みに飽き飽きして、
街を後にしてバスターミナルへと向かった。

僕はこうしてヨーロッパの旅を再び始めた。

メテオラ行きのバスは快調にスピードを上げ、
テッサロニキの街をあっという間に抜け出した。


夜10時。
眠ってしまった僕を車掌は揺り起こし、
バックと共に道端へと放り出した。

「メテオラだ」と言って去っていったバスの後には僕だけが残り、
その上をまん丸の月が浮かんでいた。

どうやらここがメテオラの街らしいのだが、
バスターミナルでもなんでもない道の上。
地図もなくここがどこだか皆目検討がつかない。

ともかく明かりのある方へ歩いてみるか、
と中心街らしき場所へ向けて歩みを進める。

中心地あたりへと出たらしく大きな通りまで出ると
スクーターにまたがったおっさんがやってきて「ホテル?」と聞いた。

特に当てがあったわけではないので、
適当に値段交渉をするとそのままそのホテルへと身を沈めた。

どうやら宿のオーナーがたまたま通りかかって僕を見つけたらしい。
見知らぬ街で運良く路頭に迷わずにすんだという事だ。


お腹も空いたので外に出て適当な軽食を買って宿に戻った。

月明かりの下、
すぐ目の前に岩山たちが黒く浮かんでいた。

明日は奇石の山々に立てられた修道院へと赴く。


その月明かりの影に期待が大きく膨らんだ。

2009年1月24日土曜日

世界一周(33)ギリシャ/ひとりの夜






DATE:2009/01/24 Greece - Thessaloniki -


僕は早朝の電車の中にいた。

これからまた一人旅が始まる。

そう思うと寂しくもあるがまたワクワクもしている。

誰かと旅をする良さも一人で旅をする良さも。
まだ僕は旅の途中にいるのだと思った。



動き出した列車はガタゴトと音を立て、
あっという間に大都会を後にした。

イスタンブールの町を抜けるとトルコの大地は
広大な農業地帯が広がっている。

そういえばトルコについて、
移動の景色を見るのは初めてだった。
夜行に乗ってばかりいたので、
今日に至るまで景色を見ることなんてなかったのだ。

あっという間に過ぎ去った1週間。
僕が見ることがなかった世界がこの場所にはまだまだ埋まっている。
それを思うとトルコを離れるのが少し名残惜しくなった。


太陽もすっかり昇り、
車窓から眺める景色の光も強くなったころ、
ふと残してきたマサミの事を思い出した。

今頃起きだしたころかしら。

寝ぼけながら歯でも磨いている様子を想像して、
なんだかおかしくなった。

今日からまたそれぞれの旅が始まっていた。


お昼を過ぎてもギリシャ行きの列車は相変わらずガタゴトと揺れている。

ここからギリシャのテッサロニキまで列車で向かい、
そこから列車かバスを乗り継いで岩の上の教会があるメテオラを目指す。

上手くいけば明日の朝には、
遅くとも明日中にはメテオラへと到着する予定だ。

ギリシャからはフェリーでイタリアへと向かい、
イタリアからは飛行機でスペインを目指す予定だ。
そしてさらにそこから南米へ。

中東の旅が終わり、
ヨーロッパの旅もまた始まる前からカウントダウンをはじめている。

南米から先は・・・想像もつかない。



ギリシャの国境には3時ごろたどり着いた。

トルコ語からギリシャ語へ。

国境の駅に掲げられた駅名の看板には、
見慣れないファイの文字が描かれていた。


出国の手続きはあっという間に済んだが、
ギリシャ側の列車の乗り継ぎがあるらしく1時間近くその駅で過ごすことになった。


ついにトルコを出てヨーロッパへとたどり着いたのだ。

何もない駅で列車の通らない線路を眺めながら、
トルコへと続くレールを眺めてそう思った。

通り過ぎてきた道だった。
そして反対を見ればこれからいくレールが繋がっている。


トルコ。

この旅の中でひとつのメインイベントであった国が終わりを告げた。

最も憧れたのは白い台地パムッカレだった。

その絶景をテレビでひと目見たときから、
そこは一生で一度は訪れたい憧憬の場所となっていた。

その憧れは期待に外れることなく、
青空の下、真っ白な姿を僕に見せてくれた。


パムッカレにギョレメ。

それらの自然だけではなく歴史に満ちた町もある。

イスタンブールの町はどこまで歩いても飽きることはなかったし、
そこに建つ建造物の全てが1度では見回ることができないくらい、
強く感動を与えるものばかりだった


そしてなぜかこの国には働く人々に刺激を受けた。
絨毯屋のサディックさんや、ハマムのケセジさん。
冷やかしに訪れた皮用品のお土産屋さんや民族衣装のお店。

そこで働く誰もが、
今までどこの国でも感じた事のない「プロ」を感じさせる人たちだった。

なぜこの国の人たちが僕にそう感じさせたのかはわからない。

それは中東とヨーロッパの文化が交じり合った結果かもしれないし、
トルコ人という人々のもともとの気質かもしれない。

しかしそこには立ち並ぶ高層ビルがハリボテに感じさせない力があった。
こういう感覚に陥ったのは中国以来久しぶりだった。


この旅を始める前は単に観光地としての憧れだった国が、
国境を越えた今、成長の魅力あふれる10年後が楽しみな国へと変わっている。


この国にもう一度来よう。

できれば夏の日がいい。

きらきらと輝く太陽の中、たくさんの自然をもう一度訪れ、
そしてイスタンブールの町の変化を楽しむのだ。

整備された路地。ずらりと並んだショッピングセンター。
そして天高く伸びる高層ビル。

すでに発展を謳歌しているこの街はどう変わっていくのだろう。

中東もヨーロッパもアジアも。

すべてひっくるめてさらにユニークな街になっているに違いない。
だって何千年もの間、この場所は世界の玄関口だったのだから。




夕日が沈みかけたころにやってきた列車に乗り込んで、
僕はギリシャの町へと向かった。

スペイン人2人、韓国人一人の3人組と出会い、
お互いの旅を語り合う。

出会い、別れ。そうだこれが旅ってやつだ。



深夜1時ごろ真夜中にテッサロニキの街に着き、
乗り継ぎの列車を探したが、
結局それは明日の夕方にしかないことがわかり、
明日の早朝のバスを探すことにした。


さて今日の夜をどう過ごそうか。


駅の中のベンチに座りぼーっとしていると、
駅が閉まる時間らしく警備の人に虫けらのように追い出された。
なんだかギリシャ人いやな感じだ。

しかたなく外に出てどうするか思案するが、
バスターミナル行きの始発バスは6時。
ホテルに泊まるとしても、どうせ3時間ほどしか滞在はしない。


じゃ、ここで寝るか。


そう思い駅の入り口の隅っこに寝袋を敷き、
バックパックを枕にして寝袋に包まった。


This is Backpacker's.


そう思うとなんだか一人旅の感を取り戻した気になる。

久しぶりの一人の夜。
記念すべき第一日目の宿泊先は駅の外側の隅っこになった。

街には霧のような雨が降っていた。
それでも気分は参らず、なぜか僕の心はちょっとワクワクしたままだった。

ひんやりとしたアスファルトの上に敷いた寝袋は以外にも暖かく、
いつの間にかぐっすりと眠りに落ちていった。

2009年1月23日金曜日

世界一周(32)トルコ/終わりの夜2










DATE:2009/01/23 Turkey - Istanbul -


「てっぢゃん・・・行っちゃうの?」

まだ寝ぼけ眼でマサミが言った。

「うん、行くよ。旅だしね」

僕はそう答えた。

「本当にいっちゃうの?」

「うん」そう言いかけた僕は、思わずその場に凍りついた。

・・・こいつ鼻水だらだらじゃねーか。

思わずそうツッコむと、
「だってティッシュがなくなっちゃったんだもん。トイレに駆け込むのも雰囲気でないし」とマサミが答えた。

なんて奴だ。別れの朝だっていうのに。


悲しくて泣いてるんだか、
単に寝ぼけているのかはわからないが、
ともかく涙と鼻水は彼女からだらだらと流れ続けていて、
なんだかそれを見ていると旅の予定などどーでもよくなって、
「やーめた」とまずは彼女の鼻水を拭くことにした。

なんだかなー。と思うも、
それはやっぱり僕が彼女に恋をしてしまっているということだろう。

愛は偉大だ。そして鼻水も。


そんなわけで今日一日トルコにいることにした僕らは、
午前中はベッドでごろごろとして、
まーそれもなんなので目的もなしにボスポラス海峡を越えて、
対岸まで渡ってみることにした。

町をぷらぷらと二人で歩く。最後のデートって奴だ。


今まで3日もいたのに川の近くまでは一度も行かなかったので、
川沿いの景色もなんだか新鮮だ。

川沿いには魚バーガーなるへんてこなものも売っていて、
試しに食べてみると単にサバをパンにはさんだそれは、
どう考えても単体で食べたほうがうまい代物だ。
なにしろパンに魚臭さが移ってうまくもなんともない。

その他にもムール貝のドルマなんて奴も売っていて、
ドルマの名前に躊躇するも地元の人があまりにもうまそうに食べているので、
試しに1つ食べてみるとこれがなんとも絶品で、
ムール貝に味付がついたご飯を詰めたものに
レモンをジュッとかけて食べるそのドルマに嵌ってしまい、
結局はおかわりをすることになった。

憎きドルマにもいろいろあるものだ。


対岸までガラタ橋を渡って新市街へ。

ガラタ橋にはたくさんの釣り人がいて橋の両側を埋め尽くすように、
釣竿がボルポラス海峡へ向かって垂らされている。

釣り人の足元のバケツにはたくさんの魚が入っていて、
どうやらこの場所での釣りはけっこう獲物が多いらしい。

夕暮れ過ぎにも関わらず多くの釣り人が真剣に釣り糸を垂らしていた。
この魚たちは家族と共に食べるご馳走となるのだろうか。
そんなことを思うとなんだか楽しくなった。



ガラタ塔まで行って塔を眺めてから、
まちをぶらぶらしていると一軒のハマムを見つけた。

ハマム。

それは噂に名高いトルコ風呂のことだ。

トルコ風呂、と日本で言うといかがわしいお店を連想するが、
ここトルコの風呂はもちろんそんな場所ではなく、
ケセジと呼ばれるあかすりの専門化が活躍するスチーム風呂だ。

なかなか行く機会がなく延期になっていたが、
せっかくのトルコなのでぜひ行ってみたいとは思っていた。

が。

この街角のハマム。
なんだか様子がおかしい。

ハマムは通りから一本外れた細道にあるのだが、
ハマムの前の通りにはなぜか怪しい男たちが、
ポツリポツリと立っている。

その様子がなぜか単に待ち合わせやなにかではなく、
明らかに「ナニカ」をしているように見えるのだ。

そんなわけで僕らはびびった。

トルコ風呂には行きたい。
でもこんな怪しいところに行っても大丈夫なのだろうか。

なにもここにしなくても、
料金は高いが街中には観光客用のハマムもある。
荷物の心配もあるしそっちにしたほうが安全ではある。

敵情視察。と銘打ってハマムに料金を確かめにいく。

どうやら観光客用の3分の1。
中を見ても特に怪しい雰囲気はしなかった。
店員もなんだか感じのよい人だ。

しかしハマムの前からはなぜか怪しいおっさんが、
そろりそろりと付いてくる。

そんなわけでちょうど振り出した雨と怪しいおっさんを避けるために、
腹ごしらえとケバブを食べてマサミと二人で作戦会議を始めた。

怪しい男たちがたむろす町のハマムか、
それとも煌びやかな内装の観光地のハマムか。

それが問題だ。




ガラリ。とスライドするドアを開けた。

先ほどとは違う無愛想な男がカウンターに座っている。

「2人」と僕が言うと、
男はそこで待つようにと階下にある更衣室を指した。

少し待つと先ほど会ったやさしそうな男がやってきて、
つたない英語でやりかたを説明してくれる。

この時点でなんだか僕らはほっとした。

なんだ、けっこう普通のハマムじゃないか。


そう僕らが選んだのはもちろん怪しげな道に立つハマムだった。
理由は単に「結局そっちの方が面白そう」だからだ。
さすがはバックパッカー。ネタには弱い。


そんなわけで更衣室に通された僕らは、
電話ボックスのような個室でバスタオル一枚の姿に着替え、
しっかりと鍵ができる更衣室に荷物を残して風呂場へと向かった。


言うまでもないがさすが町のハマム男女混同だ。
そして日本人が思っている風呂とはまったく形が異なる。

男女混同と言っても基本的には他人と一緒に風呂に入ることはないようで、
僕らが入ったときは客がいなかったこともあるが、
貸しきり状態で大きな風呂場を二人で独占した。

風呂場は大理石でできた岩盤浴のような二人ほどが寝転がれる大きな台を中心に、
その周りにはいくつかのお湯が流れる洗い場のようなものが並んでいる。

いわゆる浴槽というものはなく、
体を洗うための洗い場も単にお湯が溜めてあるだけで、
そこでゴシゴシと体を洗うようなものではない。


そんなところで何をするのか。

それは単に大理石の台に寝転がるだけなのである。

大理石は下に暖炉でもあるのか暖められていて、
そこに寝転がるだけでも太陽を浴びているかのようにぽかぽかする。

寝転がっているとケセジさんがやってきて、
ついに彼らの本領発揮となる。


最初受付だと思っていた優しそうな男の人が実はケセジさんで、
白い衣服を脱ぐとびっくりゲイなら大喜びしそうなかなりのマッチョ。

そんなムキムキなケセジさんが、
台の上に魚のように乗っけられた僕たちをごしごしと洗ってくれるのだ。


最初は前面から。

と腰にバスタオルをかけられたあられもない姿の僕を、
ゴシゴシと洗っていく。

なにかミトンのようなものを手に装着し、
ゴシゴシとあかすりを始める。

そういえば人生初めてのあかすりだ。
特に痛くもなく優しいマッサージのように丹念に丹念に体を洗う。


次は背中だ。

ひっくり返り背中をゴシゴシされる。
気持ちよく洗われていた僕にマサミが声を上げる

「てっちゃん・・・すごいよ。」

なにが?と首をひねりふり返ると、
何やらすごい垢がでていることがわかる。

前面ではほとんど出なかった垢が見る見るうちに出てくる。
人に垢を見られるなんてなんだか辱めを受けているようだ。

それでもケセジさんは止まることなく、
ゴシゴシ。ゴシゴシ。と僕の体を洗いたてる。


そもそも男に体を洗われるなんて、なんてこったい。

これまでの数々のゲイトラブルを思い出す。
いまさらだがこのケセジさんがゲイではないことを祈る。

普通ならば女の子なのに普通に見知らぬ男に体を洗われるマサミの方を心配すべきだが、
ことこういう事に関しては僕の方が危険度は高いのだ。
そんなわけで一人じゃなくマサミがいることを心強く思った。


そうこうしているうちにあかすりタイムは終了し、
台の下にある洗い場へと呼ばれた。

そこで何が行われるのかと思っていたら、
体を熱いお湯で流される。
それだけか。と思っていたがケセジさんは何やら秘密兵器のようなものを持ち出し、
それと石鹸をこすり合わせはじめた。

秘密兵器と思われるのは例えるならばストッキングのようなものだろうか。

もしかしたらストッキングそのものかもしれないが、
それと石鹸が組み合わさるとものすごい事になる。

ストッキングに石鹸をつけてぐしゃぐしゃにすると
驚くほどの泡が、もわもわとたち始めるのだ。

そのシャボン玉製造機もびっくりな泡を持つと。。。

なんとケセジさんは僕の頭にその巨大な泡の塊をかぶせ、
頭をゴシゴシと洗い始めたではないか。

シャンプーなんて知りはしない。
巨大な泡の塊をかぶってサザエさんのようになった僕の頭を、
ケセジさんは一心不乱に洗う洗う洗う。

そしてその次はお決まりのように泡を体につけて、
プードルのようになった僕の体を洗う洗う洗う。


と、すっかりきれいになった体をお湯で洗い流して、
僕のトルコ風呂体験タイムは終了したのであった。


驚くべきはここまでがとてもスムーズで、
しかも痛かったり目に石鹸が入ったりなどのトラブルがまったくなかったことだ。

これぞプロの技と言うべきだろう。



僕の後はマサミがケセジタイムとなり、
女の子用に胸をバスタオルで隠すなどの細かい違いはあったけれど、
まったく表情を変えずプロに徹するケセジさんに感動し、
ぜひこの姿をセクハラ中東おやじ達に見せたいと思った。


すっかり満足した僕らはぽかぽかの体で風呂を後にして、
更衣室で着替えると仕事が終わったケセジさんを褒め称えた。

いやぁ、あんたプロだねぇ。と。

遠いトルコの国でこういう仕事のプロに会えた事はとてもうれしい。

日本人から見るとどこの国に行っても、
仕事のやり方は適当に見えるので、
正直感心できるほどのサービスを受けることはほとんどない。
アジアや中東はもちろんヨーロッパでさえもだ。

なので、こんな街中の普通のハマムで、
これだけの仕事できるトルコという国のポテンシャルは
なかなかのものじゃないかと思うのだ。


片言の会話だったが、
「そう言えば表になんか怪しい人たちがいるんだけど・・・」
と思い切って聞いてみると
「あぁ、ここは売春ロードだからね。お客さんもそういう人が多いよ」
とあっさりと言われた。

そうかあの男たちは客引きの男たちだったのか。
不倫がご法度のイスラム圏であってもそういった商売はやはりあるものだ。
ちなみに彼の言うことには、
「彼らはトルコ人としか商売しない。外国人はだめ」だそうだ。

興味本位でトルコではセックスの後にハマムに寄るのか、それとも前かと聞くと
「みんなセックスの後に入ってくよ」「男性一人でね」との事だった。
セックスの前に体をきれいにする日本とはえらい違いだ。


そんなこんなで怪しげな道に立つハマムでのトルコ風呂体験にすっかり満足し、
帰り道にまたもやムール貝のドルマを大量に買って帰り、
部屋で二人で最後の晩餐2を開催することにした。

ムール貝ドルマがあまりにも美味く二人で貪っていると、
宿のオーナーが電話をしてきて今からディスコに行かないか?と言う。

二人とも踊るのは大好きだが、
宿のオーナーがあんまりイケテル感じではなく、
ディスコといっても中東音楽ガンガンの奴かもよ、と断ろうとするが、
オーナーの強引さに負けて一緒に夜のディスコに繰り出した。

なんだか宿中ののりがいい奴を集めてきたらしく、
アメリカ人の兄弟2人と、別の宿に止まっているオランダ人の2人、
そしてオーナーの友達2人と計9人の大所帯でディスコへと歩き出す。

1件目のディスコが満員(どういうこと?)で、
2件目へとタクシーで向かったが、これが結構あたりで、
クールな音楽と共にイスタンブールの夜へと酔いしれた。


緑色の光線が舞うハコの中を、
重低音が腹に響く音楽がぎっしりと満たしている。

僕は両腕をぐるぐるとまわし、めちゃくちゃに足をばたつかせた。

いつしかそれがダンスになり音と混ざる。


「なんかいいね」とマサミが言った。

「なんかいいね」と僕が言った。


外の空気を吸おうと飛び出した路上で思わず二人は笑い、
そして何回目だかもわからないキスをした。



トルコ最後の夜。
イスタンブール最後の夜。

そして僕ら二人の最後の夜だった。

2009年1月22日木曜日

世界一周(32)トルコ/終わりの夜に










DATE:2009/01/22 Turkey - Istanbul -


「ひろしごめん」と書いた手紙。

僕らは彼を知るというトルコ人に、
「ひろしに今日のランチは行けなくなった」と伝言を頼み、
トプカプ宮殿を目指した。

この際だから「ひろし」の説明は省くことにする。
今日はトプカプ宮殿がメインディッシュなのだから。


オスマン帝国の王たちの宮殿、トプカプ宮殿。
トルコ最後となる今日はそこへ訪れることにした。

1日1つの名所をめぐる贅沢な観光プランはやはりバックパッカーならではだ。
ブルーモスクにアヤソフィア、そしてトプカプ宮殿。

どれ一つとっても1時間や2時間の観光では物足りない。
急いで駆け足で回るツアーなんて想像もできない。
それほどイスタンブールの建築物は魅力に満ちている。



イスタンブールに数多くある歴史的建造物の中で、
このトプカプ宮殿は最も大きなものである。

そりゃ、歴代の王たちの宮殿なのだから当然なのだが、
大都会イスタンブールの土地をこんなにも占めていいのだろうかと心配するぐらい広い。

宮殿は中央のきらびやかな建物から始まり、
それを取り囲むように広い庭が広がりそれを城壁が囲んでいる。
それで終わりと思いきやその周りに「第一の庭」があり、
広い大きな庭をさらに帝王の門をようする城壁が囲んでいる。
敷地面積70平方km。東京ドーム換算でいうと1.5倍ほどの大きさだ。

そんなわけでこの広大な宮殿を回るために、
ひろしとの約束は反故となったのだがそれは思い出話の一つだ。


トプカプ宮殿もまたとにかく美しい。

荘厳さや神聖さといった面では、
ブルーモスクやアヤソフィアが勝っているが、
きらびやかさという面では圧倒的にトプカプ宮殿が勝利を収める。

真っ白な大理石を基調にした建造物の数々。
そのどれもがイスラムのアラベスク模様で埋め尽くされている。
それは観光客用のトイレにまで及ぶほどだ。
僕は世界一贅沢なトイレに入った気がしている。

宮殿に残された金銀財宝もまた素晴らしく、
驚くほど巨大なダイヤモンドや宝石をちりばめた剣や王冠に目をくらませた。

そして驚くべきは天井で、
見たこともないほどの精緻な文様がびっしりと天に浮かんでいる。

白い大理石に浮かぶ金や赤、そして青い色たち。

なんだかアラビアンナイトの王様を思い出させるような宮殿だ。


そしてここにはハーレムがあった。

「ハーレム」と聞いてぴくりともしない男子は、
きっと最近うわさの草食男子とかなんとか言う奴だろう。

美女たちが住まう楽園。王は毎夜その美女の中から一人を選び・・・ごくり。

つまりはそーいう場所がハーレムであって、
最盛期には1000人の美女が暮らしていたという。なんとうらやましい。
僕が王様だったらあの子とあの子と、あの子も・・・。

とまぁイメージは膨らむが、
実際のところハーレムは意外と実質的な生活空間になっている。

女性たちが暮らす部屋、そして教育のための部屋。

そんな実生活に必要な部屋ももちろんあり、
それらの部屋を抜けていくと浴室やトイレなんかもあったりする。

王様が女性を選びに行くために通った通路や、
寵愛した女性が住まう家などもあったりして当時の様子が伺える。

王が暮らした部屋や女王たちの部屋はやはり豪華で、
ハーレム外にある実務用の部屋なんてかすんで見えるほどだ。


そんなわけで結局4時間近くも宮殿の中を歩き回り、
腹ペコになりながらやっとのことで外に出たのであった。

いやぁ、さすがイスラムの王の暮らした宮殿。
何はともかくハーレムはやはりうらやましい。


おなかが空いたので近くの観光客向けのケバブ屋でケバブサンドを頼むと・・・。

肉少なっ!!!

普段ならば行かない観光客向けの所で買ったのが悪かったのか、
町の2倍近くの値段のくせに2分の1の肉の量。

おなかが空いていたイライラも手伝ってか、
マサミと二人でムスッとする。
マサミはさらにキレる。食べ物の恨みは恐ろしい。


という訳で気を取り直して、
町に出て屋台のケバブ屋で気が済むまでケバブを食べる。

鶏肉のケバブに牛肉のケバブ。

トルコのケバブはやはり本場というか、
中東で食べてきたものよりも圧倒的にうまい。

しっかりと味がついており、
その中東チックな味付けがなんとも言えず美味なのだ。



すっかり満足した二人は「最後だしね。」
イスタンブールのバーへと向かった。


1ヶ月以上、中東を旅したマサミとも今日でお別れだ。

僕はここから電車でギリシャへ向かい、
マサミはここから飛行機でスペインへ向かう。

なんだかんだいってこの素敵な女の子は旅の友としては最高だった。

そのピースフルな考え方、人への異常なまでのフレンドリーさ。
どこへ行ってもその土地の人に愛される彼女を僕はとても尊敬している。

たまにぶっ飛んでいるけれどその話しっぷりも、
職業柄というかさすがというしかない。


明日からまた一人旅が始まる。
その実感はまだない。
でもきっと、始まってしまえばすぐにそれに慣れるだろう。

旅とはそういうものなのだ。

出会い、別れる。

その繰り返しこそが旅を続けるものの定め。


ビールを二つ。ウェイターに頼む。
なみなみと注がれたグラスを受け取り僕らはグラスを掲げた。


「乾杯!」


そうしてイスタンブールの夜は更けていった。



きっと僕はこの女の子を好きになり始めている。

僕は彼女の笑い声を聞きながら、
アルコールのまわった不確かな脳の中、なんとなくそう思った。



さようなら。また会う日まで。


僕は今日もまた旅人だった。

2009年1月21日水曜日

世界一周(32)トルコ/アヤソフィアとMR.サディック










DATE:2009/01/21 Turkey - Istanbul -


イスタンブールという町はなんと歴史に溢れた町なのだろう。

昨日のブルーモスクに引き続き、
アヤソフィアを訪れた僕はただそう思うしかなかった。


ローマ帝国滅亡後、
キリスト教の大聖堂を改築して作られたイスラムモスクであるその建築物は、
キリスト教の特徴とイスラム教の特徴の両方を持つ、
ユニークな建築物だ。

実際にそこを訪れてみれば
ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国が、
この建築物を破壊せずにそのままイスラムのモスクとして利用した理由がよくわかる。

それほどまでに荘厳な雰囲気がアヤソフィアの中には漂っている。


キリスト教の教会から十字架を剥ぎ取り、
単に祭壇とイスラムの装飾がいくつかなされただけの内部は、
それだけでも十分なほど元々の完全さを示している。

柱の多くは精緻な装飾が施されていて、
中世の最高の技術がそこに残されている。

天井ははがれかけているが美しいアラベスク模様が描かれ、
ところどころにキリスト教のフレスコ画も見ることができる。


アヤソフィアの美しさはブルーモスクのものとはまったく違ったものに見える。

ブルーモスクが今もなお生きる生きた美であるとすれば、
アヤソフィアは保存された死の美であるようにも思える。

現在のアヤソフィアが博物館として保存されていることに象徴されるように、
アヤソフィアはいつの時からか呼吸を止め、
ただその美しさを維持するだけの存在になっている。

その雰囲気が荘厳な内部に満ち満ちていて、
入り込めばただ言葉を失い、厳粛な面持ちで場内を歩き回るしかなくなるのだ。



閉館時間までの3時間はあっという間に過ぎてしまい、
最後は急ぎ足でまわることになってしまったが、
まだまだ物足りなさは残っている。

単に美しいだけではない世界がそこにあり、
その歴史の重さは一度見ただけでは到底わからぬものだった。


僕はすっかりイスタンブールの町に魅了されてしまっている。

アジアとヨーロッパの境目としての情緒は、
すっかり大都会に押しつぶされて消えうせているが、
その中に潜む歴史は本物だ。

いつしかそれも時代に飲み込まれてしまうかもしれないが、
今ここでそれを感じることができることはとても幸運なことだ。

アヤソフィア。

忘れることのできない感動が僕の胸にまた刻まれた。





アヤソフィアを離れ、一軒の絨毯屋へと赴く。

普段ならお土産など買わない僕がそこで何をしているのか。

それはまた話せば長くなるような気がするが、
実は昨日ブルーモスクの中で客引きに誘われて、
一人の人物と出会ったのがきっかけだ。


MR.サディック。


日本語ぺらぺらの彼はイスタンブールに絨毯屋を構えている。

単なる絨毯屋ならば別に相手にはしないのだが、
この人なんだか面白い。


なぜか飾ってある大前研一とのツーショット写真。

どうやら彼と友達のようで、
MR.サディックの商売はVIP相手の絨毯販売のようだ。

そういえば店構えもなんだかよろしく、
飾ってある商品もひと目には安物とは思えないものばかり。


そんな日本語ぺらぺらの彼と昨日は仲良くなり、
ワインを何杯もご馳走になりながら楽しいときを過ごしたのだが、
やはりそこは商売もそこそこ絡んでくる。

という訳で一度絨毯を見てみなよと、今日また訪れることを約束したのであった。

一日で一気に落とすわけでなく、
単に商品を見せるだけでなく、
最初は接客に徹して客との交流を深めるだけ。

こんな商売の方法ができるやつを今まで見たことがない。

そんなわけで絨毯にはまったく興味はなかったが、
今日もまたMR.サディックのところへワインを飲みに訪れたのであった。



まずは楽しく談笑タイム。

現在の金融ショックの話や、
日本のクラブや裏の話などなどなど。

今までの現地人にはなかった深い話題で盛り上がる。

この辺がさすがVIP相手の商売をしている人だ。
話題の質が圧倒的に異なる。

と、ワインも2杯目になりそろそろ商売の時間だ。


トルコ絨毯と言えば世界的に有名で、
間近で見ると確かに美しくその評価は本物であることがわかる。

しかしこの絨毯。美しいだけあってそれ相応の値段がするもので。。

玄関用のマットレスでさえ最低10万円から。
家に敷く絨毯なんて50万円近くするものがほとんどなのだ。

こりゃ、先生。変えやしませんぜバックパッカーにゃ。

いや、バックパッカーじゃなくたって変えやしないし、
そんな高価なものを足蹴にするほど大きな器を持ってやしないのだ。

そんなわけで商売が始まってからはあの手この手で防戦一方だ。
とは言え、そこは商売上手。攻めてもあの手この手で攻め立てる。


「これなんてどう?お土産には調度良いと思うけど」

「いや、、いま帰る家ないんですよねー」

「そうかぁ。でも母親に何か買って帰るってのも良いと思うけどね」

「そうですねー(そう来たか)、でもそんな広い絨毯ひける所ないですよ。日本の家ですからねぇ」

「じゃぁ、こっちの絨毯は?日本の家にはぴったりだと思うけど!」

「確かにそれいいですね!(いや、、いい物なのはわかるけど)」

「でしょ?わかると思うけどこの品質でこの値段はなかなかないよね。料金は後払いで良いし」



勝負も後半戦に入りお互いの熱がこもって来る。
今までの話の中から僕の昔の年収もゴールドカードを持っていることも、
すべて把握済みのMR.サディック。
どうやら見込み客としては十分らしく彼の視線がかなり熱い。


「すごいいい。本当に欲しくなるね、サディックさんの絨毯は」

「そうでしょ。これは100年前のものを僕が手直ししたものなんだ」

「さすが、いいセンスしてる。伊達に遊んでないねw」

「まぁね。いろいろ見てきてるしね。これは本当におすすめ。財産としても残るよ」

「でもね、サディックさん。」

「なあに?」

「僕は旅をしているんだ」



ここからだ。ここからが勝負だ。


「僕は旅をしている。もちろん沢山のお金もかかる」

「そうだね。それもわかる」

「そして欲しいものも沢山ある」

「世界を旅していたらそうなるよね」

「その全てを持って帰るには僕のバックパックは小さすぎるんだ」

「・・・」

「もちろんそれを全て送るなんてこともできるけど、世界中でそれをやっていたら破産しちゃうでしょ」

「それはそうかもしれない」

「それに働いてもいない僕には、その絨毯は分不相応だと思うんだ。本当に良いものだしね」

「・・・」

「だから。いつか僕が本当に帰るようになった時に、またこの店に寄ることにするよ。」

「本当にありがとう。サディックさん!」




そうして僕は彼にお礼を良い、きらびやかなお店を出ていった。

僕はこの出会いを本当にうれしく思っている。
トルコという土地でこれだけのビジネスマンに出会える事は奇跡だろう。
久しぶりに「商売のこつ」ってやつも実体験で教えてくれた。


新旧が入り混じるこの場所で今日もまた人が息づいている。

明日はどんな出会いがあるかはわからない。
それでも今日の日の出会いを喜ぶことを忘れてはならない。


ないす・とぅー・みーと・ゆー。MR.サディック。


また僕の旅の中で特別な人にであった。