2009年6月30日火曜日

世界一周(44)エクアドル/僕は今、地球の真ん中



















DATE:2009/06/30 Ecuador - Quito -


朝靄の中たどり着いたバスから見るキトの町は何の変哲のない町に見えたが、
遠くに見える旧市街の白い町並みが少し心を躍らせた。

適当な宿を探した後にしばしもう一度仮眠を取り、
町に出たのは午後近くなった11時頃だった。


ガラパゴスからキトへ。
人工物あふれるこの町に意外なほどに戸惑いはない。
たかが1週間で感覚が変わるわけもないのか、
それとも何十年も暮らした人間の町並みが体に染み付いているのか、
久々にあふれる車と人とビルの中、むしろ落ち着いている自分がいた。

エクアドルの首都キトの町は、
世界遺産にも登録されたコロニアルの町並みで有名だ。

南米に半年近くもいるとこのコロニアルという奴には正直もう飽き飽きしているが
それでもやはりキトの町並みは中々に美しいと思ってしまう。
特にキトの町は白い建物が多く真っ白な建物に石畳の道はやはり映えるものだ。

旧市街は元からある小さな商店が多いのかお土産やでもない、
普通の雑貨屋やパン屋などが世界遺産の町並みに軒を並べている。
美観保護の為か全てのお店の看板は統一されたフォントの鉄製。
ケンタッキーも小さな商店もみな同じ看板なのが面白い。


旧市街の中でも面白いのが教会で、上を見上げると美しい模様で彩られた天井が、
木の風合いを生かした幾何学模様を展開している。

丘の上にある新しい教会はゴシック建築のかなり大きなものだったが、
茶目っ気なのか雨樋がみな動物の姿でカメやイグアナなんかの形をしている。

ペルーのリマでも思ったが南米北部の教会は面白い。
侵略されて作られたものであるはずなのにその土地それぞれに特色があるのだ。
キリスト教と単に言ってもカトリックやプロテスタントと様々なように、
その信仰のスタイルもまたその土地独自のものであるようだ。


町を歩き回り教会めぐりをしているとあっという間に、
キトの町の旧市街を横断してしまう。
それほどに小さな町だった。

旧市街の隣には新市街もある。
またその周辺には住宅地などが切り開かれている。
それを全部合わせても人口は100万人程度。
一国の首都とはいえ、それほど大きな町ではない。


そう言えば今は赤道直下の町にいるはずだ。
が、何を隠そうキトの町は以外にもかなり寒い。

赤道直下の町なんて真夏に暖房を入れたような狂おしい程の暑さだと思っていたのだが、
ここキトは山間に作られた町で高度はなんと2850メートルもあるのだ。
知らずに歩いていたが、どうりで息が切れるはずだった。


観光も終えぶらぶらと帰り道。
政府機関の前で百人ほどの人が集まりデモをしている姿がある。
どうやら世界中どこにでも主張や不満はあるようだった。

デモの集団を眺めていると面白いことに気づく。
キトではなんと男性も民族衣装を着ているのだ。
ボリビアやペルーでは多くの民族衣装を身にまとう女性の姿を見たが、
男性はなぜかジーパンにジャケットと言った洋服姿。

それがここキトではポンチョにシルクハットのような帽子をかぶった男性がいる。
世界でも男性は洋服であることが多いため、これはかなり珍しい。
その姿が面白くスペイン語で繰り返されるデモの主張はさっぱりわからなかったが、
しばらく集まる人々の姿をゆっくりと眺めた。


日が暮れる前に宿へと戻り、帰りがけに買ったパンを食べる。

あ。うまい。

思いがけずおいしいそのパンの味に、
単純ながらキトもまぁ悪くない。なんて再評価をしてみたり。


小さな小さな赤道直下の町、キト。

僕は今、地球の真ん中に立っている。

2009年6月29日月曜日

世界一周(44)エクアドル/グッパイ☆ガラパゴス







DATE:2009/06/29 Ecuador - Galapagos Islands -


朝、ホテルのベランダから海を眺めると
相変わらずのんびりと寝転がるアシカの姿が見えた。

いつの間にか当たり前になっていたこの景色。
そんな景色も今日でさよならだ。


まるで冗談のように動物であふれかえるガラパゴス諸島。
1週間の滞在、その全てが驚きの連続。

世の中はまだまだ広い。
わかっていた事だが、また新たに思い知らされた。


明日歩く道にはイグアナもペリカンもアシカだっていない。

それが今までの普通だったはずなのに、
なぜか今はそんな世界があることのほうが非現実的に思えた。



今日の午後のフライトでグアヤキルへと戻り、
そこからそのままバスで首都キトを目指す。

南米大陸の旅も終わりに近づいて来ている。
残す目的地はキト、そしてコロンビアのボゴタのみだ。
ボゴタからは中米パナマへと一気に飛行機で渡る。

そうかキトを越えればもう北半球なのか。
その事実がいっそう旅の終わりを現実的なものへとさせた。



またこの島へと来ることができるだろうか。
空港までの道の途中、ふとそんなことを考えた。

その時に、この島はこの姿でいられるのだろうか。
再訪の思いと共にそんな疑問もまた過ぎる。


全ては変わる。

僕もまた世界もまた。



飛び立った飛行機の小さな窓から島を望んだ。
海岸沿いにいるはずのアシカやイグアナの姿はこの高さからでは見ることができない。




それではまた。また会う日まで。

2009年6月28日日曜日

世界一周(44)エクアドル/進化の行方





























DATE:2009/06/28 Ecuador - Galapagos Islands -


とことこと山道を歩いている。

サンクリストバル島はガイドが要らずに島内を探索できる唯一の島。
島内にある保護センターや施設を訪れても良かったが、
すでにそういったものは見飽きてしまっていたため、
ただ当てもなく島の中を歩いてみることにした。


相変わらず朝もまた寝転ぶアシカ。
なだらかな坂道を登っていくといつしか町を抜け、
一本道の山道に出ていた。

車の往来は多いらしく奥に町でもあるのか、
5分も間を置かずタクシーや地元民の車が走り抜けていく。

さすがにガラパゴスとでも言うのだろうか、
道の両側にはどこまで続くかもわからない森があり人の姿もなく無法図に伸びている。

小雨が降り注ぐことがあったが、
それでも蒸し暑いこの島にあってはむしろ涼しくも感じ、
時たま思い出したように振る大粒の雨を除いては気にする程でもない。
むろん雨が降り出したとしても逃げ込むような民家は少なく、
運悪く雨が降り出した時にはただただその雨の中を歩くだけだった。


森にはたくさんの花があり木がある。
当たり前のことなのだろうがその当たり前がいたく美しい。
小さな花々はこの島々のダイナミックな自然の前でははかなく見えたが、
雨にぬれたそれらはやはりこの島の一部で華やいだものだった。


森の両側にはよく果物の木が植えられている。
もちろんそれは人が暮らしている証拠で恐らくはこの島固有のものではないのだろうが、
熟れたオレンジやマラクージャはやはりおいしく、
ぽとぽとと落ちているそれらをお腹が減ったらつまんで食べた。


道をずっと歩いていると小さな町に出て、日曜らしくサッカーの試合をしているところだった。
特に観光化された町でもない何の変哲もない町だったが、
こんな辺境の島に普通の町があること自体が面白くその長閑さに笑った。


町を抜けさらに進むと島を見渡せる高台へとたどり着いた。
曇ってはいたがやはりこの島の森は濃く一面は緑一色で覆われている。

人がこの島へ辿り着く何千年も前からこの姿であったのだろう。
生まれては死に行く森の生まれ変わりをこの高台から想像する。
この地はそうやって生きてきたのだ。きっと。


高台を降りて人のいる民家へと迷い込むと、
そこには養鶏場なのか100匹近くの鶏が居て、またアヒルも豚もヤギもいた。
何千年も続いた自然のルールを一気に無視した人と家畜の大移動。
それもまた人の成す業でもあった。

それでもただそこに暮らすおじさんの笑顔は素敵で、
濁りのないものであるのもまた確かなことだった。
ここはまた人の生きる地でもあった。


行き止まりに辿り着き元来た道を引き返す。

町のサッカーはもう終わってしまったらしく静けさを取り戻している。
残ったおっさん達がビールを片手に世間話をしている程度だ。
今日もまた町の一日が終わろうとしている。


道を良く見れば車に轢かれたのだろう鳥が意外にも多く道に横たわっていることに気づく。
無残にもぺしゃんこになったその姿はこの島々の姿を代弁しているようにも思えた。


道の片側にうずたかく詰まれた人工物らしきものの山を見た。
近づいてみるとやはりそれは人の捨てた沢山のゴミの成れの果てだった。

ゴミ処理が追いつかないのか、それとも昔の名残なのか、
そのゴミの山は目の届く限り100メートル以上にわたって続いている。

プラスチックにダンボール。ペットボトル、洋服、何かが詰め込まれたビニール袋。

まるで捨てられた都市のように雨に打たれ風に吹かれるその姿は、
人が生きるということの象徴だった。



僕らはこの島を壊している。

それは間違えのない事実だ。
例え研究所が沢山の動物を繁殖させている事実があったとしても、
そもそもその行為自体が罪の償いのようでなんだか本末転倒な気もする。

単に動物の繁殖をさせたいのであれば、
人間がこの島から立ち去れば良いだけなのだ。


この島の豊かな自然を観察しようとする人間は
飛行機を使い、豪華客船でクルーズし、町を車で走り回る。
そのどれもが石油を使い二酸化炭素を排出する。

人間はものを食べる。
それは魚であり植物であり動物でもあるが、
そのどれもがこの自然の恵みの一部であり、もしくは人間が持ち込んだ異物である。

人の運んだ貨物に忍び込んだネズミやゴキブリが森へと逃げ、
その生態系へ大きな変化を与える。
ヤギや牛などの家畜もまた森の草木を食べつくす。

便利さのために作られたビニールや洗剤が、
不要になれば森や川へと流される。それは姿を変えず何十年も森を痛めつける。


この島に来て本当に豊かな自然にめぐり合う事ができた。

イグアナ、アシカ、ペリカン、カメ、ペンギン。

動物園でしか見たことのない生き物がすぐ目の前に存在する、普通。
そんなこの島の当たり前は世界に二つとない驚くべきものだ。

だからだろうか逆に人間の存在が逆に浮いて見え、
僕たちが生きるということの姿が鮮明に浮き彫りにされるのだ。



僕たちは進化をし続けている。

生き残る術。それ自体を進化というのであれば、
人間という種は何千年に渡り急激な進化をし続けているのだろう。

火を使うことを覚えた人間は、
土器を作り鉄を精製し、今では機械を作り出している。

世の中の仕組みを謎解き、携帯電話やインターネット、
飛行機や車などという発明をし続けてきた。

医療は発達し救うことのできなかった多くの人を生かし、
また寿命も今もまだ伸び続けている。

服は自動化された工場で生産され、
家もまた計算された工学に基づきどんな環境にも適応できるより良いものが作られている。

畜産技術や農業もまた進化し、
品種改良や、はたまたクローン技術なんてものも発明された。

衣食住はもちろん、
それを支えるサービスに至るまで多くの発明により、
人は増え続ける力を爆発的に伸ばしてきたと言えるだろう。


何千年前には行けなかった場所へと移動する飛行機や車などの移動技術。
何千年前には住めなかった土地で生きる、建築や農業など多くの技術。

その発明の数々で人の生活圏は大きく変わり、
またその生態系も文化もまた大きく変わってきた。



しかし人が変わるということは、一方で自然を変えてしまうということでもあるのだ。

人はゼロから何かを作り出すことはできない。

自然にあふれる何かしらの資源を使い、
それを糧にすることによって生きている。

だからこそ人も自然も根本的には1つであり、
それを共有し分かち合いながら暮らしていくしかないのだ。

人が多くを奪えばその分、何かが足りなくなる。


強い者がより多くの物を奪うという事実については否定する理由もない。
奪えるのであれば奪えるぶんだけ奪い豊かになればよいのだ。

ただし略奪者はその反動を常に受けなければならない。

宝を奪われた遺跡が崩壊する映画の1シーンのように、
奪うという行為には当たり前のようにリスクが伴うのだ。


地球温暖化による海面上昇や砂漠化。
過剰生産による枯れた農地。
いつか来る石油の枯渇。
汚染された河川による飲料水の毒害化。
増え続けるゴミとその廃棄場所。


いくつもの問題がいま人類には立ちはだかっている。
その全てが人間の手によって引き起こされた出来事だ。

多くを奪った結果を今、償わされているのだ。



ここに在る自然を楽しむために。

僕らは多くの努力をし続けなくてはならないだろう。

自然を楽しむために人間が自然を保護する。
それはある意味ではとても矛盾した行為でもある。

人が手を加えなければ必要のない事なはずだからだ。

そしてその保護された自然もまた、
いつしか本来の姿ではなくなっているかもしれない。
人間が思い描く自然の姿に加工された自然。つまりは人工物だ。
保護というのは本来の目的を見失う可能性すら秘めているのだ。


保護動物や絶滅危惧種なんて言葉もまた人間が作ったものだ。

自然界では滅ぶものは滅ぶし、生き残るものは生き残るのだ。
例えそれが人の手によるものであっても、
それは環境の変化に適応できなかっただけとも言えるだろう。

それを保護する行為自体は単なる人間のエゴに過ぎない。

それは将来発見される可能性のある薬効のためでもあるし、
単なる愛好家の為の保護である事もある。



人もまた自然の一部であることは確かなのだ。

今の時代を裏返して見れば、人がいる世界でいかに生き残るか。
それもまた自然の進化の行方のひとつかもしれない。

例えば犬や猫のようにペット化された動物。
豚や牛のような家畜。
多くの野菜や果物といった植物。

これらはある意味では生存競争に勝ち残っている、
つまりは進化しているという事でもあるのだ。



これからもずっと人間が奪う行為を止めることはないだろう。
それが生きるということだからだ。

だがしかし、僕らはもうその反動の力を知っている。

奪うも残すも力を持つ強者の自由だ。

何を良しとし、何を悪とするか。
それはいつの時代も個の利益のために決められる。

奪い過ぎれば資源は枯渇し、
この増えすぎた人口を維持する術はもう無くなるのだ。


僕らは神ではない。

人はゼロから何かを作り出すことはできない。

何を奪い、何を造り、何を守る?


それが僕らの進化の行方。

2009年6月27日土曜日

世界一周(44)エクアドル/夕日に寝転ぶその姿は











DATE:2009/06/27 Ecuador - Galapagos Islands -


湖に行ってもう一度森を見て。
そうだカメパンも買ってみよう。

サンタクルス島からサンクリストバル島へと渡る今日、
この島のたくさんの思い出めぐりに朝は何かと忙しい。


13時発のボートに乗り、
帰りの飛行機の出発点でもあるサンクリストバル島へと向かう。

これでもう残る島は1つだけになってしまった。
明後日にはガラパゴス諸島を去っている。
夢の中のようなこの世界から去ることは少し寂しくもある。
驚きだらけの毎日が、一日一日と終わりを数え始めていた。


なぜか入島時よりも厳しい荷物検査を終え重いバッグごと僕はボートへ乗り込んだ。
いつもと同じスピードボート。波が高くはないとはいえまたゆれるに違いない。
ウンザリしていた船での移動だがこれも最後となるとなんだか寂しくもあった。

跳ねるように進んでいくボートの上、はるか後に見えるサンタクルス島を眺める。
遠く姿が見えなくなった後でも雲の形で島の位置はわかる。
同じように前方には雲の下、サンクリストバル島が見えていた。


夕方近くにたどり着いたサンクリストバル島は思った以上に整備された美しい島だった。
夕日もまた美しくたどり着いたボートと僕たちを赤く黄色に染め上げる。

やたら愛想の良いおばちゃんの宿に決めベランダ越しに海を眺めると、
ちょうど夕日が沈んでいく少し前のもっとも華やいだ時間だった。


夕日から目を下ろしふと砂浜を見つめる。

・・なんじゃあれ。

思ってもいない砂浜の景色に驚き、
それを確かめるために宿を出て砂浜へと急ぐ。


本物だ。こっちはこれがうじゃうじゃいる島なのか。

夕日に染まる美しい海岸にぼてぼてと寝転んだ大きな獣たち。
一匹の時はキュートに見えるその生き物もこれだけいると酔っ払って寝転ぶ親父のようにしか見えない。



何十匹ものアシカが海岸沿いで夕日に染まり欠伸をひとつ。

そうここはアシカの島、サンクリストバル島。

があがぁと泣き叫ぶアシカの声が真夜中の島に響き渡る。



さすがガラパゴス。最後まで飽きさせねーっす!

2009年6月26日金曜日

世界一周(44)エクアドル/そんな島の長閑な一日。







DATE:2009/06/26 Ecuador - Galapagos Islands -


湖でのんびりとビールを飲みながらただ眺めている。

ひっそりと静かにたゆたう水は森の緑を映し碧く水底まで染めている。

小さな魚たちが時折り飛び跳ねる。
食後の運動なのかはたまた遊んでいるだけなのか。
虫の声の中に混じりピチョンという跳ね音が静けさに響いた。

小さなパン屋で買ったイグアナの姿をした菓子パンをがぶりと齧る。
腹ペコの体にイグアナパンの甘さがふわりと染みる。
ついでに買った見たことのない果物はトマトのような不思議な味で、
予想もしないその味に一口目はウゲェとなった。


昼間に覗いた教会はガラパゴスらしくイルカのステンドグラス。
学校が終わったのか自転車で駆け回る子供たちの姿。
観光客が出かけた後の静かな町の姿はなんともほのぼので自然と優しい気持ちになる。
そんな事を思い出しながらただぼんやりと湖のゆれる姿を眺めた。


午後も遅くなると子供たちが湖へと駆け込んできて、
静かだった湖の景色も遊園地のような賑やかさに変わっていく。

見ろよ俺、一回転できるぜ。

自慢げに回転しながら湖へと飛び込む少年たち。
ひとりの少年は10メートルほど助走をつけた後、
急に怖くなったのか失速してそっと湖に飛び込んだ。



そんな島の風景。そんな島の長閑な一日。

2009年6月25日木曜日

世界一周(44)エクアドル/進化の姿



















DATE:2009/06/25 Ecuador - Galapagos Islands -


カメ見たしサメ見たし、グンカンドリもアシカも見たしペンギンも。
海イグアナなんて腐るほど。

ガラパゴスで見られる主な動物は運良く殆ど見ることができた。

これで十分満足だがせっかくなので、
陸イグアナが飼育されているというダーウィン研究所へと行って見ることにした。


既に4日目だがサンタクルス島の観光は今日がはじめて。
本当ならば初日に観光するべき島なのだろうがツアーの都合で今日まで延びてしまった。

サンタクルス島はさすが観光客のメインベースとなる島だけあって、
港町プエルトアヨラにはありとあらゆるものが揃っている。

レストランもホテルもあるし、ネットカフェもあり旅行代理店も腐るほどある。
町は殆どそういった観光客向けの施設で占められているが、
少し道を外れるとそこで暮らす人々の家々があったり、
地元民向けの安いレストランがあったりと日常生活を垣間見ることもできる。


ダーウィン研究所はそんな町の東側にあり、
ガラパゴス諸島の生態系の研究&保護を行っている施設だ。

施設内には動物園のようにカメやイグアナが飼われていて、
観光客はここでそれぞれの生態系などを学ぶことができる。

日本のジャイカの協力もあるらしく施設の中には日本の国旗が印されているものもあり、
日本人としてはなんだか少しうれしくなる。
しかし知られている気配はなく日本の援助下手の象徴のような気もしてくる。
そんなわけで旅する日本人は未だに「チーノ」と呼ばれ続けているわけだ。
残念ながら多くの援助にも関わらず多くの人々が日本という国の場所すらも知らない。


そんな研究所内だがさすが本島だけあって、カメだけでも種類もいろいろ。

ガラパゴスのカメもまたそれぞれの島の環境によって進化をしてきたらしく、
首の長いものや、その伸ばした首をさらに上へと向けるために甲羅の形が変化したものなど様々だ。
敷地内の一部はカメにかなり接近できる所もありその大きさが実際に体感できる。
のっそりとした動きだが1メートル以上の甲羅が動いている姿はやはり迫力がある。
カメの顔は実際に良く観察してみると潤んだ瞳が意外にもかわいい。
下に生えた草や落ちているサボテンの葉を豪快に食いちぎる姿はさすがに野生だが、
普段はやはりのんびりとした生き物であるようだ。

そのせいなのかはわからないが彼らの寿命は長く、
ここにいるカメも100歳を超えるものが多くいるらしい。
100年もこうしてのんびり暮らすのもどうかと思うが、
実際にそれが動いている姿を見るとなかなか凄いことだと感心した。


さて目的の陸イグアナだが。

こいつらマジ寝すぎ。

さっきのカメの方がよほど動いてる。
そのぐらい昼時のイグアナはまったくと言っていいほど身動きしない。

黄色と茶色で彩れたイグアナの模様は美しく、
棘棘とした表皮は野生らしさを感じるが、このだらけ具合はなんだろう。
天敵がいないというだらけきった環境に生きるとこうなるものなのだろうか。

サバンナなんかに行ったら真っ先に絶滅しそうなその動きに
ガラパゴス諸島という環境の特殊さを思った。


もしかしたら最初にこの研究所を訪れていたらばもう少し違った印象を受けたのかもしれないが、
様々な動物を見てきてしまった今となっては、陸イグアナ以外に見所はあまり感じない。
慣れとは贅沢な病である。





帰り道に魚市場を見ると10匹近くのペリカンが、
魚の残り物を狙いに大口を開けて待っている姿が見える。

島の人はさばいた魚の要らない部分をペリカンに向かって放り投げる。
するとペリカンは大きな口で器用にそれを飲み込んだ。

ペリカンと人間の奇妙な共存関係はガラパゴスにもあるようだ。
大口開けたペリカンが皆同じ方向を向き上を見上げている姿はなんだか滑稽で、
これもまた人間が暮らすということなのだと少し心が痛む。

楽して生きることには何の異論はないのだけれど、
こうやって人間の気まぐれで生かされているこいつらは何なのだと思ってしまう。
人間という生物を組み込んだ生態系は複雑な波紋をそこに生きるものに与えるようだ。


なんてことも考えたが、実際は「それ俺にもくれよ」と、
さばいたマグロの中落ちをうらやましそうに見ていたのは否定できない。
ペリカンの気持ちがわかった一日でもあったのだった。



研究所も見終わってしまったが時間はまだ午後を周ったばかりだったので、
昼食を食べてからビーチがあるという海岸沿いまで行ってみる事にした。

火山でできた複雑な島の地形からかそのビーチまではなぜか森の中を歩いていく。
サボテンの木?が生える繁々とした森はそれはそれで結構楽しい。

年がら年中なのかそれとも今の時期だけなのかは知らないが、
サボテンにはいくつもの小さな実が付いていて
ウチワのような葉っぱの端からポコポコと生える姿が面白い。

じっくりとサボテンを観察してみると、
どうやらウチワのような葉っぱから次の葉が生えることで上へ上へと成長するものらしい。
天辺の方の葉っぱは緑色でサボテンらしい姿だが、
幹のようになった下の方は赤茶けた色へと変色し形も円柱状になっている。

どうやってその違いが生まれ、上へと伸びていくのかはわからないが、
進化とはやはり面白いものだと思う。

ほとんどのサボテンの幹は棘が落ち木のような姿なのだが、
時折、未だに棘を生やしているサボテンもあり単にサボテンと言っても様々だ。
これもまたどこかで分かれた進化の分岐点なのかもしれない。

「強いものが生き残るのではなく、変化に対応できたものだけが生き残る」
そうダーウィンの進化論は告げている。

そうだ世界は変わるんだ。だから僕も変わり続けなくてはならない。
明日の自分は知らない自分。
変わっていく自分を楽しめ。


サボテンの森を過ぎるとついに海岸沿いに出た。

白い砂浜のビーチではあるのだが、ここでは泳ぐことは難しそうだ。
風の強い日だからということもあるのだが波は高く激しい。
その激しさで薄い緑色のはずの海の色が茶色く濁っているほどだ。

そんな中、欧米人の団体はさすがうれしそうに突っ込んでいく。
それをひやひやしながら見守るガイドの姿が面白い。


泳ぐためのビーチはもっと奥にある。
泳ぐ準備もしていないため泳ぐ気はないがどうせならそこまで行くことにした。

砂浜を歩いていると鳥たちがピチパチと鳴いている声がする。
時たま姿を現すその鳥の名はダーウィンフィンチ。
島ごとに異なる口ばしを持つその鳥の変化を見てダーウィンは進化論を唱えたのだ。
手の平よりも小さなそのスズメが世界に衝撃を与えるきっかけになったことがなんだか面白い。
山ほどいるこの島の動物たちの中、この小さな生き物が世界を変えたのだ。
そう思うと黄色い美しい姿をしたこの鳥がなんだか宝石のように見えた。


当然のように寝転がる海イグアナを横目に海岸沿いの遊歩道を歩く。

サギが真っ黄色な目をしながらとことこと歩いていく。
海イグアナが時折あげる鼻息が波の音に賑やかに混ざる。

これが自然の自然な姿。

そうなのかもしれない。
驚くほど豊かな自然の姿は本来こうあるものだったのかもしれない。

人という種が奪っていった幾つもの過去や未来を僕は否定する気はない。
増えるということは本能だ。人は動物のあるべき姿を取っているに過ぎない。
これが人間の今の姿。今を生きる進化の形。

だけれども、この島を見ているとその失ったものの姿をやはり一度見てみたかったと思ってしまう。
それもまた人の勝手な思いであることは確かなのだけれど。




道を歩けば何匹ものイグアナ達が昼寝をしてる姿が見える。

そう、何匹も、何匹も・・・何匹。って何匹いるんじゃぃ!


イグアナ慣れしていた僕でさえも思わずその光景に引きつった。

大きいのも小さいのも。大小合わせてイグアナなんと100匹近く!

溢れ過ぎていていかにももう「踏んでください」と言わんばかりに
遊歩道の中ほどまでうじゃうじゃと溢れてきている。


うわぁ・・・なんだかなぁ。



これが自然の本来の姿・・・じゃないかもしれないw