2009年6月28日日曜日

世界一周(44)エクアドル/進化の行方





























DATE:2009/06/28 Ecuador - Galapagos Islands -


とことこと山道を歩いている。

サンクリストバル島はガイドが要らずに島内を探索できる唯一の島。
島内にある保護センターや施設を訪れても良かったが、
すでにそういったものは見飽きてしまっていたため、
ただ当てもなく島の中を歩いてみることにした。


相変わらず朝もまた寝転ぶアシカ。
なだらかな坂道を登っていくといつしか町を抜け、
一本道の山道に出ていた。

車の往来は多いらしく奥に町でもあるのか、
5分も間を置かずタクシーや地元民の車が走り抜けていく。

さすがにガラパゴスとでも言うのだろうか、
道の両側にはどこまで続くかもわからない森があり人の姿もなく無法図に伸びている。

小雨が降り注ぐことがあったが、
それでも蒸し暑いこの島にあってはむしろ涼しくも感じ、
時たま思い出したように振る大粒の雨を除いては気にする程でもない。
むろん雨が降り出したとしても逃げ込むような民家は少なく、
運悪く雨が降り出した時にはただただその雨の中を歩くだけだった。


森にはたくさんの花があり木がある。
当たり前のことなのだろうがその当たり前がいたく美しい。
小さな花々はこの島々のダイナミックな自然の前でははかなく見えたが、
雨にぬれたそれらはやはりこの島の一部で華やいだものだった。


森の両側にはよく果物の木が植えられている。
もちろんそれは人が暮らしている証拠で恐らくはこの島固有のものではないのだろうが、
熟れたオレンジやマラクージャはやはりおいしく、
ぽとぽとと落ちているそれらをお腹が減ったらつまんで食べた。


道をずっと歩いていると小さな町に出て、日曜らしくサッカーの試合をしているところだった。
特に観光化された町でもない何の変哲もない町だったが、
こんな辺境の島に普通の町があること自体が面白くその長閑さに笑った。


町を抜けさらに進むと島を見渡せる高台へとたどり着いた。
曇ってはいたがやはりこの島の森は濃く一面は緑一色で覆われている。

人がこの島へ辿り着く何千年も前からこの姿であったのだろう。
生まれては死に行く森の生まれ変わりをこの高台から想像する。
この地はそうやって生きてきたのだ。きっと。


高台を降りて人のいる民家へと迷い込むと、
そこには養鶏場なのか100匹近くの鶏が居て、またアヒルも豚もヤギもいた。
何千年も続いた自然のルールを一気に無視した人と家畜の大移動。
それもまた人の成す業でもあった。

それでもただそこに暮らすおじさんの笑顔は素敵で、
濁りのないものであるのもまた確かなことだった。
ここはまた人の生きる地でもあった。


行き止まりに辿り着き元来た道を引き返す。

町のサッカーはもう終わってしまったらしく静けさを取り戻している。
残ったおっさん達がビールを片手に世間話をしている程度だ。
今日もまた町の一日が終わろうとしている。


道を良く見れば車に轢かれたのだろう鳥が意外にも多く道に横たわっていることに気づく。
無残にもぺしゃんこになったその姿はこの島々の姿を代弁しているようにも思えた。


道の片側にうずたかく詰まれた人工物らしきものの山を見た。
近づいてみるとやはりそれは人の捨てた沢山のゴミの成れの果てだった。

ゴミ処理が追いつかないのか、それとも昔の名残なのか、
そのゴミの山は目の届く限り100メートル以上にわたって続いている。

プラスチックにダンボール。ペットボトル、洋服、何かが詰め込まれたビニール袋。

まるで捨てられた都市のように雨に打たれ風に吹かれるその姿は、
人が生きるということの象徴だった。



僕らはこの島を壊している。

それは間違えのない事実だ。
例え研究所が沢山の動物を繁殖させている事実があったとしても、
そもそもその行為自体が罪の償いのようでなんだか本末転倒な気もする。

単に動物の繁殖をさせたいのであれば、
人間がこの島から立ち去れば良いだけなのだ。


この島の豊かな自然を観察しようとする人間は
飛行機を使い、豪華客船でクルーズし、町を車で走り回る。
そのどれもが石油を使い二酸化炭素を排出する。

人間はものを食べる。
それは魚であり植物であり動物でもあるが、
そのどれもがこの自然の恵みの一部であり、もしくは人間が持ち込んだ異物である。

人の運んだ貨物に忍び込んだネズミやゴキブリが森へと逃げ、
その生態系へ大きな変化を与える。
ヤギや牛などの家畜もまた森の草木を食べつくす。

便利さのために作られたビニールや洗剤が、
不要になれば森や川へと流される。それは姿を変えず何十年も森を痛めつける。


この島に来て本当に豊かな自然にめぐり合う事ができた。

イグアナ、アシカ、ペリカン、カメ、ペンギン。

動物園でしか見たことのない生き物がすぐ目の前に存在する、普通。
そんなこの島の当たり前は世界に二つとない驚くべきものだ。

だからだろうか逆に人間の存在が逆に浮いて見え、
僕たちが生きるということの姿が鮮明に浮き彫りにされるのだ。



僕たちは進化をし続けている。

生き残る術。それ自体を進化というのであれば、
人間という種は何千年に渡り急激な進化をし続けているのだろう。

火を使うことを覚えた人間は、
土器を作り鉄を精製し、今では機械を作り出している。

世の中の仕組みを謎解き、携帯電話やインターネット、
飛行機や車などという発明をし続けてきた。

医療は発達し救うことのできなかった多くの人を生かし、
また寿命も今もまだ伸び続けている。

服は自動化された工場で生産され、
家もまた計算された工学に基づきどんな環境にも適応できるより良いものが作られている。

畜産技術や農業もまた進化し、
品種改良や、はたまたクローン技術なんてものも発明された。

衣食住はもちろん、
それを支えるサービスに至るまで多くの発明により、
人は増え続ける力を爆発的に伸ばしてきたと言えるだろう。


何千年前には行けなかった場所へと移動する飛行機や車などの移動技術。
何千年前には住めなかった土地で生きる、建築や農業など多くの技術。

その発明の数々で人の生活圏は大きく変わり、
またその生態系も文化もまた大きく変わってきた。



しかし人が変わるということは、一方で自然を変えてしまうということでもあるのだ。

人はゼロから何かを作り出すことはできない。

自然にあふれる何かしらの資源を使い、
それを糧にすることによって生きている。

だからこそ人も自然も根本的には1つであり、
それを共有し分かち合いながら暮らしていくしかないのだ。

人が多くを奪えばその分、何かが足りなくなる。


強い者がより多くの物を奪うという事実については否定する理由もない。
奪えるのであれば奪えるぶんだけ奪い豊かになればよいのだ。

ただし略奪者はその反動を常に受けなければならない。

宝を奪われた遺跡が崩壊する映画の1シーンのように、
奪うという行為には当たり前のようにリスクが伴うのだ。


地球温暖化による海面上昇や砂漠化。
過剰生産による枯れた農地。
いつか来る石油の枯渇。
汚染された河川による飲料水の毒害化。
増え続けるゴミとその廃棄場所。


いくつもの問題がいま人類には立ちはだかっている。
その全てが人間の手によって引き起こされた出来事だ。

多くを奪った結果を今、償わされているのだ。



ここに在る自然を楽しむために。

僕らは多くの努力をし続けなくてはならないだろう。

自然を楽しむために人間が自然を保護する。
それはある意味ではとても矛盾した行為でもある。

人が手を加えなければ必要のない事なはずだからだ。

そしてその保護された自然もまた、
いつしか本来の姿ではなくなっているかもしれない。
人間が思い描く自然の姿に加工された自然。つまりは人工物だ。
保護というのは本来の目的を見失う可能性すら秘めているのだ。


保護動物や絶滅危惧種なんて言葉もまた人間が作ったものだ。

自然界では滅ぶものは滅ぶし、生き残るものは生き残るのだ。
例えそれが人の手によるものであっても、
それは環境の変化に適応できなかっただけとも言えるだろう。

それを保護する行為自体は単なる人間のエゴに過ぎない。

それは将来発見される可能性のある薬効のためでもあるし、
単なる愛好家の為の保護である事もある。



人もまた自然の一部であることは確かなのだ。

今の時代を裏返して見れば、人がいる世界でいかに生き残るか。
それもまた自然の進化の行方のひとつかもしれない。

例えば犬や猫のようにペット化された動物。
豚や牛のような家畜。
多くの野菜や果物といった植物。

これらはある意味では生存競争に勝ち残っている、
つまりは進化しているという事でもあるのだ。



これからもずっと人間が奪う行為を止めることはないだろう。
それが生きるということだからだ。

だがしかし、僕らはもうその反動の力を知っている。

奪うも残すも力を持つ強者の自由だ。

何を良しとし、何を悪とするか。
それはいつの時代も個の利益のために決められる。

奪い過ぎれば資源は枯渇し、
この増えすぎた人口を維持する術はもう無くなるのだ。


僕らは神ではない。

人はゼロから何かを作り出すことはできない。

何を奪い、何を造り、何を守る?


それが僕らの進化の行方。

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