2009年6月4日木曜日

世界一周(43)ペルー/そうだ世界は美しい







DATE:2009/06/04 Peru - San Francisco -


初めてのアヤワスカ体験から1日が経った。

あれはいったいなんだったのだ。

そう思うがそれを理解できるほど僕はまだアヤワスカの事を知っていない。

ただあれが単なるドラッグではないことは確かだった。
世界と自分を繋げるための薬、それに近い何かだった。

しかし世の中には不思議なものがあるものだ。
そして僕はまだその全てを知ってはいない。
まだ1週間はある。残りは4回。その中で少しでもその世界を感じ取れればいい。



今日もまた二回目の儀式がある。

今日は何を見るのだろう。何が起こるのだろう。
それが朝から楽しみだった。


とはいえ今日もまた儀式まで特にやることがない。
電気がないのでパソコンも使えないし、読む本も持っていない。

こういう何にもしない一日も久々だなぁ、なんて思う。

驚くなかれここにはこうやって儀式を受けながら1ヶ月以上も暮らしている人がごろごろいるのだ。
中には1年がかりなんて人もいて、ただ驚くばかりだ。

正直何かしていないと落ち着かないタイプの僕には、
この「何にもしない」ことを1年出来ることがものすごい事にも思える。
何せ一日の刺激はアヤワスカしかないのだ。
あれはあれで物凄いがそれでも1年となると僕だったら飽きてしまう。

まぁ、そもそも儀式の目的は「治療」であるため、
嫌も良いもないのだろうが、それでもやっぱり気の遠くなる期間だ。
僕だったらその治療自体で病気になってしまいそうだが、世の中にはいろんな人がいるものだ。


てなわけで買い物も昨日済ませてしまったため、
お得意のぶらぶら散歩にいざ出陣とあいなったのであった。
唯一の娯楽が散歩なんてのもなんだか、なんだか。


とはいえさすがにアマゾンの村。
どこに続いているかもわからない一本道をぶらぶら行くのはなかなかに楽しい。

人っ子一人通らない、わけでもないが、
それでも30分歩いてすれ違ったのは町を走る乗り合いタクシー1台のみ。
真っ青に晴れた蒸し暑い中、ただまっすぐな道を歩いていく。

30分も歩くとやっと集落らしき家の姿が見えてくる。

家はスイピーノと同じく椰子の木の葉っぱで作った屋根の家。
1つの家族で暮らしているのか一箇所に幾つかの家が並んでいる。

大きな集落ともなると集会を開く広場があったり、
倉庫のような家があったりとなかなか面白い。

川では子供たちが遊んでいて小さな子供はおしり丸出しで、
水の中でばしゃばしゃとはしゃいでいる。

この辺りの子供は人懐っこく、手を振ると笑顔で答えてくれる。
なんだかアジアを思い出すような景色だ。


しばらくぶらぶらと歩いて、
帰り道に会ったおばあちゃんの荷物を持って村の中心まで行ってからスイピーノへと戻った。

冷静パスタを作り夕食を済ませ、あとはやる事はない。


今日したことは遅めの朝食と散歩と夕食だけ。
なんとシンプルな一日だこと。

4時に夕食を済ませてからは儀式がある9時までゆっくりと過ごすだけ。

絵を描いていたマサミを呼んで、
ジャングルの森の中に沈んでいく夕日を二人で眺めた。

なんも特別じゃない一日も、毎日夕日だけが特別だった。



夜8時半になり儀式場へと向かう。

蚊帳の中に入り寝袋を敷いてその中に寝転がる。

今日は10人ぐらいだろうか。
寝転ぶ人。座ってタバコを吸う人。それぞれが思うままにくつろいでいる。


儀式の準備は特にない。

各個人にはトレイが手渡され、つまりそれは吐き気を催した場合の器になる。
僕はまだ吐いたことはないが、聞くところによるとそれは結構気持ちがよい事らしい。

各自うがい用の水やトイレットペーパー、
そして身を清めるためのバラの香りがするアルコールは任意で持参する。
儀式中に吸うタバコはこの辺りで取れる古くからのもので、
ピパと呼ばれるキセルに入れて吸うものだ。

儀式が始まるまで各自自由に過ごし、
シャーマンも儀式前はリラックスムードでピパでタバコを燻らせている。
シャーマンの数は日によって変わる。1人の時もあれば4人もいるときもある。
時には女性のシャーマンも訪れる。
それは儀式を受ける人の治療の難しさや段階によるという。
それぞれのシャーマンにも個性があるのだろう。医者にも外科や内科があるように。

おまじないなのか、シャーマンはタバコを吸いながら、
口笛のように音を出しながら煙を吐き出している。
その出来損ないの口笛のような音はなんだか心地よく、心が安らぐ。

シャーマンはおもむろに儀式場の中央に置かれたペットボトルを取り上げる。

そう、これがアヤワスカなのだ。

驚くなかれ、儀式と言っても映画に出てくるような祈祷のシーンや火を焚くシーンはなく、
なんだか友達の家の飲み会のような感じで儀式は始まるのだ。

そしてアヤワスカが入っているのは現代の便利グッズ、ペットボトル。
2種の植物を煮込んだその液体はふたを開けると発酵のためかプシュリと音がする。
少し茶色がかった緑色の液体、それがアヤワスカである。

シャーマンはそれをペットボトルに入ったままひとふり、ふたふり、とする。
たまに効能を調整するためなのか2つのアヤワスカを混ぜ合わせたりもする。
実際、アヤワスカの効能はその度に違うらしく作り直したりもするらしい。
アヤワスカ自体は毎回作るのではなく、無くなれば作る、といった感じだ。
日が経てば発酵するからだろうか同じアヤワスカでも効き目が違うのが面白いところだ。


シャーマンがアヤワスカを取り出したころ。

皆が一様に少ししかめ面をする。そう、、、


「また飲むのか、あれを」のサインだ。


正直、本当にアヤワスカはまずい。
腐った渋柿を煮詰めて青汁と混ぜ合わせたもの、の何十倍まずい。

たった50ミリリットル。
その苦痛を耐えるのがまず最初の難関なのである。

シャーマンがアヤワスカに何やらまじないのようなものを唱え、
儀式が始まると小さなコップに少しずつアヤワスカが注がれシャーマンから近い順に順々に飲んでいく。
飲む量も毎回違うらしくそこはシャーマンのさじ加減らしい。
コップに並々と注がれる場合もあるし、半分ほどの時もある。
効き目が欲しければ「マス(もっと)」と言う事もできるし、
儀式の途中でおかわりすることもできる。
個人的には狂気の沙汰としか思えないが、けっこうおかわりする人はいる。

ちなみに僕はアヤワスカを味わって飲んでしまう癖があり、
それは食べ物というものに対する礼儀だと思うのだが、
周りのみんなは見ているだけで気持ち悪いから早く飲めと言う。
つまりはそれだけまずい飲み物ということだった。

アヤワスカを飲んだ後はみなうがいをして、
その匂いを必死に外へ追い出そうとする。
そうまでして飲むものってなんだろね、と思うがこれはそういうものらしかった。


アヤワスカが皆に行き渡れば後はゆっくりと横になるだけだ。
インドでのバングラッシーの時もそう思ったが胃で吸収する場合は効き目が現れるのが遅く、
だいたい1時間ぐらいはかかるようだ。
その間はみなタバコを吸ったり寝転んだりして各自好きなようにしている。


そんな風にして儀式は始まる。

そんな風にして僕の二回目のアヤワスカ体験も始まった。





1時間も経った頃だろうか。なぜかこの場所にいると時間の感覚が失われる。
なので正確な時間はわからないがたぶんそれぐらいの頃だ。

初めての時に出会った虹色の道がゆっくりと目の前に見え始めた。

そうだ、これが入り口だった。

一回目の時を思い出し、
その虹色が形になるのをぼんやりと待った。


シャーマンが歌うイカロが響いた。

独特のリズムと音階。その歌が僕らを乗せて世界へと旅をする。
シャーマンの歌声はまるで夢を操る指揮者のようで、
その声に乗ると異常なほどに敏感に世界は変わる。

まるで物語があるかのようにイカロの音が変わると、
驚くべきことに僕らの見る世界もまた変わるのだ。

より多くの歌を知っているシャーマンは良いシャーマン。
そういうものらしい。
イカロの歌とは世界の、大地の物語で、
それを知ることはまた世界を知ることのようだ。
だからこそ、多くの歌を知っているということは、
それだけ世界に多くつながっているという事なのかもしれない。
そしてより多くの歌を知るシャーマンは僕らもまた、
いろいろな世界へと連れて行くことができるということだった。


シャーマンの声が優しく体に響く。
ビジョンは見えていないがとても心地よい。

目を開けて外を見ていると、その景色もまた美しかった。


七色の何かがチラついては消えていった。

何か明確なものが見えたわけではなかったが、
それはそれでとても心地良い時間だった。

ただ僕はその時間を楽しんだ。
月明かりは美しく、木々もまた美しい。それだけで十分だと思った。


もしかしたらこれもまたアヤワスカのメッセージなのかもしれない。

アヤワスカが見せてくれるビジョン、幻覚。
そんなものに捕らわれずに今あるこの世界を楽しむこと。

それが今日のメッセージなのかもしれない、と思った。


何気ない日常を愛せよ。

変わらない毎日を愛せよ。

いま手の中にある全てを愛せよ。






月明かり灯る大地の上、イカロの声が響いていた。



そうだ。世界は美しい。

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