DATE:2009/05/10 Chile - Easter Island -
風も吹かず静かに水をたたえた火山の火口に向かって作りかけのモアイが突き出している。
僕は今、モアイの切り出し場に来ている。
僕の横に寝転んだままでいるコイツは数百年も同じ姿で空を眺めていた。
切り出し場には作りかけのモアイがおもちゃのように、
何体も何体も置き去りにされている。
掘り出したばかりのものもあれば、既に完成しているだろうと思うものもある。
その大きさもまちまちで1メートルぐらいのもあれば20メートルの巨大な奴もいる。
なんだってまぁ、こんなにも中途半端なモアイがここに置き去りにされているのだ。
いくらモアイ倒しや鳥人信仰で時代が変わったとはいえ、
優に100体は超えるだろうモアイがこんな辺ぴな場所で何百年も立ち尽くしている姿は、
誰がなんと言おうとヘンテコとしか言いようがない。
そもそも先祖の象徴とされるモアイを置き去りにするなんてありなのか?
そんな当たり前とも思える疑問が頭に浮かぶ。
古代の人々にとってモアイとは実際のところどんなものだったのだろう。
今、常識とされているモアイの歴史が単に歴史家によって作られた偽のストーリーなのではないかと疑いたくもなる。
モアイなんてタダの家の置き物みたいなもんだったんじゃねーか?
芸術家よろしく昔の人々はモアイを刻み、
そしてちょっと気に入らないことがあれば「違ーう!」と言って、
いったんは陶芸家のようにモアイを壊そうとしてみたものの、
やっぱり大き過ぎてどうにもならず、仕方なしに「お前なんか無視だ!」といって
置き去りにされていった歴史がここにあるんじゃないか。
そんなおばかな昔話の方が真実に聞こえるほど、
この場所に横たわっているモアイ達はあまりにもありふれたものだった。
しっかしまぁ。。
モアイも飽きたわ。。
ついに言ってはイケナイ一言が口から漏れる。
いや、さすがにこう毎日毎日モアイ三昧とあってはそれもまた飽きるって奴だ。
そんなわけで日本の企業が修復したと言う15体のモアイがずらりと並ぶ姿にも、
あぁモアイね。ぐらいにしか感じなくなってしまったのであった。
アナケアビーチの側にあるモアイのアフ(台座)に、
モアイの顔が使われてしまっていたのはさすがにウケたが。
修復の際に紛れ込んでしまったのだろう、さすがラパヌイ。センスが良い。
上に並ぶモアイの一体の首はしっかりと無くなっていた。
自転車でぐるりと島を周り、帰りは運よくラパヌイの人の車に自転車ごと乗せてもらい楽々帰宅。
やっぱしこの島の人たちはとても良い。
あっと言う間にイースター島生活もあと1日になっている。
いつの間にこんなに時間が過ぎていたのだろう。
まるで竜宮城にでも来てしまった気分だった。
この島に流れる時間はゆっくりだ。
きっと世界が滅びてしまっても気づきはしないだろう。
それで良いじゃないか。そうも思える。
どこの誰かが何をしようと何を言おうと、
この島はゆっくりと生きている。
それ以外に何が必要だと言うのだろう。
僕はそれに答えることができない。
在るがままに。
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