DATE:2009/02/08 Spain - Barcelona -
ナンダロウコレハ。
まるで生き物じゃないかこれじゃ。
生誕のファサードのなめらかな姿を見ていると、それが呼吸でもしているんじゃないかと思えた。
あっという間だった。
生誕のファサードからぐるりと逆側へとまわり受難のファサードへ。
そこから入場口を通って教会の中へ。
教会の中から通路を通りエレベーターで塔へと登る。
塔の中の螺旋をぐるぐると回るように降りて地下の博物館を見学する。
重心の計算に使われたいくつもの重りが吊るされた実験器具、そして完成予想図。
脈打つような内部。息づかいの聞こえる柱。嘆く彫刻。
見るもの全てに生を感じそこを流れる僕らは血流のようだった。
生まれてから100年以上の間成長を続ける建物。
これが成体になるのはいつのころだろうか。
きっと僕は生きてはいない。
ただここを訪れた僕は血となってこの生き物の中に生きていく。
世界で一番美しい生き物として。
- another episode - 雑記。比べてしまえばどうでもいい気もする話
どうやらバルセロナは最も危険な街のようだった。
なにせ昨日同じ部屋になった人全員がなんらかの被害にあっている。
サイフをすられた人、カバンを開けられた人・・・etc。
日本人は全て、アメリカ人なんかもやられているので、こりゃもう厳戒態勢で望むしかない。
そんなわけで地下鉄に乗る僕の心はなんだかギスギスしている。
昨日の件もあったし、それだけこの街に対しての警戒が高いというのもある。
せっかくのサグラダ・ファミリア。
気持ちを切り替えようとするもなかなか上手くいかなかった。
それがなんだかいっそう気分を暗くさせていった。
サグラダ・ファミリア。
この名を知らない人はいないだろうと思えるほど世界一有名な教会。
天才建築家のアントニオ・ガウディが作った奇抜な教会はここバルセロナにあった。
フランスのモン・サン・ミッシェルと合わせて、
今回のヨーロッパの旅では最大の見所のひとつがここだった。
建設を始めてからすでに100年が経ったこの教会を28歳のこの年で見ること。
それはひとつの夢の始まりでもあった。
例えば10年。20年。
今から未来の世界。その時にもう一度見るサグラダ・ファミリアはどんな姿になっているのだろう。
そんな未来の驚きを含めた感動がいまこの教会を見ることの意味だった。
これから何十年にも渡って期待させる建物なんてここぐらいしかないだろう。
だからこそこ旅を始めてこの場所に来ることが楽しみだった。
なのに、だ。なんて気分で地下鉄に乗っているのだ。
昨日の出来事が、まったく馬鹿なことをした自分が今でも悔しかった。
こういう出来事は起こった時よりも後から思い出して悔しくなるもので、
ほんの10分足らずの地下鉄の乗車時間は、それを増幅させるのに十分な時間だったのだ。
サグラダ・ファミリアの目の前には地下鉄の駅がある。
この建物を目当てにバルセロナへやってきた人はみな
地下鉄の階段を上ったとたんに見える教会の姿に驚くという。
僕もその演出に期待していた一人だった。
だが今はそれが憂鬱でならなかった。
そんな気分などにはお構いなく地下鉄はサグラダ・ファミリアの駅へとたどり着き、
たくさんの旅行者と共に僕もまた地下鉄の駅へと降り立ったのだった。
旅行者たちは楽しそうに改札を潜り抜け地下鉄の階段を上っていく。
その後姿を僕は置き去りにされたような気分で見送った。
一人になった駅のプラットフォームでしばしの間、心が静まるのを待った。
電車がもう一本たどり着き、先ほどと同じように改札からお客を吐き出した。
プラットフォームはまた静けさを取り戻した。
僕はさて、と地下鉄の改札を潜り抜けた。もう大丈夫、そう思った。
そこから出てきた僕はただ高揚していた。
信じられないものを見た、といった感じだ。
どんなテレビも映像も文章も、この建物の全てを表してはいなかった。
これを作ったアントニオ・ガウディという奴は。
理解不能だ。
ただ、これこそ芸術だ。
これはきっと世界一大きなアート作品だった。
教会というにはあまりにも刺激的でアートというにはあまりにもばかげていた。
だれが何百年もかかって作られる作品を作ろうと思うだろう。
だからこの作品には「生」が感じられるのかもしれない。
「生」こそは何百年も、何千年も続く最も長く愛しく奇妙な作品なのだから。
あまりにもあっけに取られて既に5時間も経ってしまっていた。
それはお気に入りのひとつの絵に出会ったときと同じ感覚だった。
見飽きることはなく、いつまでもいつまでも。
しかし今日はもうひとつ、グエル公園を見に行かなくてはならない。
名残惜しくもう一度サグラダ・ファミリアの周りを一周して地下鉄へと乗り込んだ。
そう言えば朝の気分などすっかりどこかに消えていた。
そりゃそうだ100年アートを見てしまえば、憂鬱などその何億分の1の時間でしかないのだ。
地下鉄から降りて延々と歩くとひと目でそれとわかる公園が見えてくる。
ここも天才が作り上げたひとつの理想郷。
まぁ、その奇抜さっぷりが抜け過ぎていて、
この公園の大元となった集団住宅地の計画も途中で頓挫、結局売れたのは2軒だけ。
しかもその持ち主はガウディ本人とスポンサーのグエル氏だけだというのだから、大失敗もいいところだ。
ただそれがなぜ失敗したのかは、一度その公園を訪れれば一目でわかる。
派手過ぎ!住むのムリ!!
先ほどひと目でわかると言ったのも
ここは入り口にはいきなり生クリームのような屋根を持つ屋根がお出迎え、
中に入ればガウディらしい曲線に色とりどりのタイルを埋め込んだ装飾がいたるところへ施されているようなところ。
思わず笑ってしまうほどガウディ全開の公園なのだが、
現代のガウディファンならいざ知らず、百年前の当時の人々がここに住みたいと思うかというと、
そりゃぁ我がことと考えても、ムリ!と言わざるを得ない。
1日ならばいざ知らず毎日こんなエネルギー全開のアートに包まれて暮らせるほどの体力は凡人にはないのだ。
ちなみに世界遺産マメ知識的に言うと、
この公園に使われているタイルの作品はみなガウディの弟子が作ったものだそうで。
ガウディもガウディなら弟子もまた弟子だということだろう。
そんな失敗事業の成れの果てなのだが、しかし公園内部はなかなか見所も多く
特に公園内部にめぐらされた廊下やテラスなどの柱や手すりにはユニークな曲線が使われていて、
まさにうっとりするほどのガウディ尽くしが味わえるのである。
やっぱりこの建築家は曲線の美しさを良く知っている。
幼い頃から生き物に人一倍の興味を抱いていたというガウディ。
その生命の持つ美しさはやはり滑らかで不安定な曲線が最も表しているということなのだろう。
建築という最も直線が似合う世界でそれを破壊したからこそ彼が天才と呼ばれるのだと思った。
建築というのは単なる芸術的センスだけでなく数学的な知識とセンスが求められる世界だ。
ただ一本の柱をとっても、それが力学的に計算されたものでなくてはならない。
それを曲線を使って成り立たせるというのはどれだけ天才的な才能が必要なのだろう。
しかしだからこそ美しい。
彼が作る芸術作品にはひとつも無駄がなく全てに意味があり機能があるのだから。
ここがヨーロッパの終着点である気がした。
彼の作品が見れた今、もう後悔はない。
すっかり南米へいく心の準備は整っていた。
これを超える作品はもう「ない」のだから。
すっかりガウディ信者となり宿へと戻る。
ロビーでしばらく写真を眺めながら余韻に浸っていると「日本人ですか?」との声がかかった。
普段ならばあまりかまわないのだが今日はなんだか気分が良い。
それに勝手ながら誰かと話したい気分でもある。
ロンドンでワーキングホリデー中だという二人組み彼らとしばらく話をしていると
「実はですね・・」と衝撃の告白を受けた。
「パスポートすられちゃったんです。。さっき」
マジか。。。いや、マジだ。
恐るべきバルセロナ。なぜもこんなに毎日誰かが襲われるのだ。
まー飲めや。そう言って僕が持つワインを彼らのグラスへ注いだ。
酒で事実までは変えられはしないが、悲しみぐらいはアルコールに溶かすことができる。
それに今日のスペインワインはすこぶる旨い。
彼らとは音楽の話をし、恋の話をした。
そんなバルセロナの夜のできごと。
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